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阮振鐸[げん しんたく]
阮 振鐸(げん しんたく)は、中華民国、満州国の医師・政治家・外交官。字は叔周。 == 事績 == 奉天省立高等工業学校を卒業し、さらに1913年(民国2年)に南満医学堂を卒業した。1919年(民国8年)、日本に留学し、京都帝国大学で医化学を専攻した。帰国後の1923年(民国12年)、奉天公立医学院院長兼東北大学校医となった。その後、奉天派の支配地域で軍医等を歴任している。1929年(民国17年)、長春・吉林・吉敦鉄路医院院長となった〔王ほか主編(1996)、553頁。〕〔徐主編(2007)、410頁。〕。 満州国成立後の1932年(大同元年)4月、奉天省公署秘書長に就任する〔〔。また、この頃には、于静遠や満州青年連盟の山口重次・小澤開作とともに、満州協和党(後の満州国協和会)を結成した〔山室(2004)、199頁〕。11月、国務院国都建設局局長に任命された〔〔。1935年(康徳2年)5月21日、張景恵が国務総理となった際に文教部大臣として抜擢される〔 「鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下」『東京朝日新聞』昭和15年(1935年)5月22日夕刊。〕。1937年(康徳4年)6月23日、謝介石の後任として駐日特命全権大使を命ぜられた〔「駐日満州国大使 阮文教部大臣に決す」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)6月24日夕刊。〕。1940年(康徳7年)12月6日、 李紹庚と入れ替わりで交通部大臣に任命される〔「駐日満大使異動 李交通部大臣と入代り」『東京朝日新聞』昭和15年(1940年)12月7日夕刊。〕。1942年(康徳9年)9月28日、全面的な内閣改造に伴い経済部大臣に移り〔「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日。〕、1944年(康徳11年)12月16日には外交部大臣へ転じた〔「満州国大臣級異動」『朝日新聞』昭和19年(1944年)12月17日。徐主編(2007)、410頁。〕。 1945年(民国34年)8月、満州国が滅亡すると、阮振鐸はソ連に逮捕、連行されてしまう。1950年7月31日、中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監された。なお、この収監中において、愛新覚羅溥儀による『我が半生』(原題『我的前半生』)の執筆を手伝っている。1962年、特赦により釈放された。以後、吉林衛生学校、長春市立医院図書館などで勤務している。1973年、死去。享年81〔〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阮振鐸」の詳細全文を読む
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