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阮朝(グエンちょう、げんちょう、)は、1802年から1945年にかけて存在したベトナムの王朝である。自国を指す美称は中国(チュンクォック、Trung Quoc)〔Record China 〕。1887年から1945年3月10日までは、フランス領インドシナとしてフランスの支配下にあった。 西山(タイソン)朝に敗れて滅亡した広南国の生き残り阮福暎(グエン・フク・アイン/げんふくえい)が、西山朝を打倒して樹立した。都は順化/トゥアンホア、富春/フースアン(いずれも現在のフエ)。 ==歴史== ===前史(広南阮氏時代)=== 阮朝の初代皇帝、嘉隆帝(阮福暎、阮暎)は、黎朝大越国(中興黎朝、後期黎朝:1532年-1789年)の時代に現在の中南部ベトナムを支配していた地方王権、広南阮氏(阮氏広南国)の出身である。 後期黎朝時代、黎朝帝室は実権を失い、北ベトナムのトンキン(東京)地方を支配する鄭氏(鄭主)と、南の広南阮氏(阮主)という二大地方王権が分立し、両者は霊江(ザイン川 )を国境として対峙していた。この南北両国を、文語史料は「北河/南河」、中国や日本の史料は「東京国(交趾国)/広南国」と呼ぶ。また、欧文史料はトンキンやコーチシナと呼ぶが、両氏とも公的には大越皇帝(黎帝)の臣下を名乗り、独自の国号や帝号、年号を持つことはなかった。 1771年、西山(現在のビンディン省タイソン県)で阮文岳・阮文侶・阮文恵の三兄弟に率いられた西山党の乱が勃発した。 広南阮氏が鎮圧に手間取る中、トンキンの鄭氏はこれを好機と見て大挙して南下し、1774年に首都富春(フースアン 、今のフエ市キンタイン地域)が陥落し、当主阮福淳(睿宗)は南部に脱出した。阮氏三兄弟(西山(タイソン)阮氏)は表向き上は鄭氏に従い、広南阮氏残党の討伐を行った。1777年には南部の嘉定(ザーディン 、現ホーチミン市)が陥落し、逃げ落ちた阮福暎を除くほとんどの王族が殺害されて広南阮氏は滅亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阮朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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