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阮福源(グェン・フック・グェン、、1563年 - 1635年)は、ベトナムの広南国の君主。廟号は熙宗。諡号は孝文皇帝。阮潢の六男。 == 経歴 == 1613年、阮潢が死去すると、後を嗣ぎ、ベトナム南部を統治した。父王の政策を継承して、鄭松の擁する後黎朝の支配を拒絶した。ただ阮潢とは違って、阮福源は王を自称せず、「仁国公」(Nhơn Quốc Công)の称号を用いた。 1615年ごろ、阮福源はポルトガル商人に対してファイフォ(Faifo)を開港することを許可した。ポルトガル商人からヨーロッパの先進的な大砲を入手し、ヨーロッパの船舶の設計方法を学んで、のちの鄭阮戦争に利用した。ファイフォ港は西太平洋の重要な貿易港のひとつとして発展した。明朝や清朝の海禁政策のため、多くの日本商人が中国を置いてベトナムにやってきた。日本商人は中国の絹や陶磁の製品を獲得するため、ファイフォ港で交易した。 1620年ごろ、阮福源は娘の阮氏玉万(Nguyễn Thị Ngọc Vạn)をカンボジア王チェイ・チェッター2世(Chey Chetta II)にとつがせた。 1623年、後黎朝の権臣の鄭松が死去し、その子の鄭梉が後を嗣ぐと、阮福源に対して朝貢を要求してきた。1624年、阮福源は鄭梉の要求を拒否した。3年後、鄭梉は御林軍を率いて南下し、阮氏を討伐した。これが鄭阮戦争のはじまりとなった。第1次の戦役は4カ月間つづき、阮福源は御林軍を撃退し、富春を守りきった。御林軍の撤退後、阮福源は領土を防衛するためにリン河の南に11キロにわたる長城を築き、ヨーロッパ式の大砲を配備して、鄭主の進攻にそなえた。 1633年、鄭梉の率いる御林軍が再度南下してくると、阮福源の軍隊は日麗(Nhat-Le)の海戦で御林軍を撃破した。 1635年、死去した。死後に長衍陵(Trường diễn Lăng)に葬られた。1803年、かれの子孫の阮福映が阮朝を建国すると、熙宗(Huy Tông)の廟号を贈られ、顕謨光烈温恭明睿翼善綏猷孝文皇帝(Hiển Mô Quang Liệt Ôn Cung Minh Duệ Dực Thiện Tuy Du Hiếu Văn Hoàng Đế)と諡された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阮福源」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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