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阮籍 : ウィキペディア日本語版
阮籍[げん せき]

阮 籍(げん せき、210年建安15年) - 263年景元4年))は、中国三国時代の人物。嗣宗兗州陳留郡尉氏県の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は阮瑀建安七子の一人)。兄は阮煕。子は阮渾。甥は阮咸(竹林の七賢の一人)。
== 人物 ==
の末期に、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置くため、大酒を飲み清談を行ない、礼教を無視した行動をしたと言われている。俗物が来ると白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対した。
はじめ蒋済が召し出そうとするも応じず、蒋済の怒りを買ったが、親類に説得されたためやむなく仕官した。しかし病気のため辞職した。曹爽に参軍として召し出されたが、これも病気を理由に辞職した。司馬懿がクーデターを起こして実権を握ると従事中郎に任じられたが、ただ給料分の働きをするだけだった。歩兵校尉の役所に酒が大量に貯蔵されていると聞いて、希望してその職になり、竹林の七賢の一人の劉伶と酒を飲んでいたといわれる。そのため阮歩兵と呼ばれることもあった。
当時の礼法では、喪中には酒や肉を断つ義務があったが、母の葬儀日にも大酒を飲んで肉を食い、母の棺と別れた後、もうだめだと言って血を吐いて倒れた。何曾司馬昭に対し、礼に反する阮籍を左遷するよう言上したが、司馬昭は阮籍がやせ衰えているのを見て不問に付した。司馬昭の幕僚となっていたが、いつも酔っぱらっていた。鍾会は彼を陥れようと、何回か時事問題を問いかけたが、いつも抽象的で難解な返事ばかりだったため、失言を得られなかった。司馬昭が息子(司馬炎)の嫁に、彼の娘をもらおうと使者を送ると、それを察したのか、彼は60日間酔っぱらい続けた。このため使者は用件を言い出せず、諦めて帰った。
また、あてもなく馬車を駆って遠出するのが好きで、行き止まりにあうと慟哭して帰った。
晋書』によると、阮籍は世の人を救う志を持っていた。しかし当時、司馬氏による帝位簒奪が進む中、政争で命を落とす者が相次いでいた。竹林の七賢の一人で、阮籍と仲のよかった嵆康もまた、鍾会に陥れられ殺された。そこで阮籍は政争にかかわらず、酒浸りの生活をする道を選んだという。司馬昭はそんな阮籍を「至慎(もっとも慎み深い)」と評した。
263年、蜀漢征伐の途上で司馬昭を晋公に封じる詔勅が下された。司馬昭が型の通り辞退したため、封爵を勧める勧進文が司空の鄭沖らにより提出された。この時、鄭沖は阮籍に勧進文の草稿を命じた。阮籍はそれに従い草稿を提出した〔『文選』巻40 「為鄭沖勧晋王牋」〕。阮籍はその年の冬に亡くなった。
老荘思想を理想とし、その著作の『大人先生伝』・『達荘論』に思想が十分に見て取れる。詩では「詠懐詩」82首が有名で、陶淵明の「飲酒」・李白の「古風」など、五言詩の連作の先駆けである。深い思索に基づき格調高く、全編が人間社会の悲哀に満ちている。また、をよく弾いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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