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防石鉄道株式会社(ぼうせきてつどう)は、かつて山口県防府市と佐波郡徳地町(現山口市)の間を結んでいた鉄道路線を運営していた鉄道事業者である。 社名の由来は周防と石見を結ぶ目的からつけられたもので、津和野を通り益田へ抜け、山陽と山陰を結ぶ鉄道として計画されたが、第一次世界大戦開戦による物価高騰により資金調達と工事がはかどらず、やがて国鉄山口線が全通したため陰陽連絡の夢は破れた。その後、津和野や海岸方向の中関地区への路線延長も計画されたが実現せず、防府 - 堀間を開業したのみに終わり、1960年代のモータリゼーションの進行に勝てず廃止となった。 会社はその後バス事業者に転換したが、1992年に地場大手で親会社となっていた防長交通に吸収合併され、消滅している。 == 会社沿革 == === 鉄道の計画から開業まで === 1912年7月三田尻停車場(防府駅)を起点とし佐波郡柚野村(徳地町を経て山口市)大字横山にいたる軽便鉄道(軌間1067mm)敷設の申請書を提出した〔「17 石三軽便鉄道敷設免許申請」『防府市史 資料3』654 - 658頁〕石三軽便鉄道は、発起人は地元の人以外では当時電気王とよばれた才賀藤吉と伊予鉄道創業者の小林信近が名を連ねていた〔才賀電機商会破綻のため1914年3月に才賀電機商会関係者は退任した。三木理史「近代日本の地域交通体系」大明堂、1999年、198-199頁〕。11月に免許状が下付され〔「19 石三軽便鉄道着工に関する指示一件」『防府市史 資料3』659頁〕、1914年5月に創立総会を開催し社長に神戸市の岩崎虔,専務取締役に中関村(防府市)の山根荘太が就任し〔『日本全国諸会社役員録. 第23回』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕、10月になり石三鉄道株式会社に改めた。そして12月17日から小野村(防府市)から工事に着手した。 ただ不況の影響で株式の払込は滞り、建設資金不足の問題が起こった。また社長の岩崎が別の事業で起訴される事件もおこり社長を退任した。そのために1915年7月の臨時株主総会は混乱し工事中止の意見も出たが、8月に内容調査報告会において工事は継続することになった。そして前社長の不祥事により会社の評判を落としたので1916年5月になり防石鉄道に改称し、1917年に萩出身の熊谷少間が社長に就任した。その間も資金難に苦しみながらようやく1919年になり三田尻-奈美間が開業し、翌年には堀まで延伸した〔資金不足で開業時に島地川と佐波川本流の合流地点の橋梁の一部は木橋であった。後に国鉄から鉄橋の払下げをうけ架け替えられた。『徳地町史』265頁〕。さらに堀から横山までの残存区間(約18km)の工事に着手したが資金不足で工事は中止となり、工事延期願いを再三提出したが、1936年に免許失効となった〔『防府市史 通史3』326頁では横山から山口線地福駅まで延長を計画したとしているが鉄道統計資料では確認できない。〕。 また1921年4月に三田尻 - 三田尻港 間(臨港線)(約9km)の計画に対し免許が下付されたが、やはり完成させることは出来なかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「防石鉄道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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