|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 仁 : [にん, じん] (n) kernel ・ 銅 : [どう] (n) 1. copper ・ 銅山 : [どうざん] 【名詞】 1. copper mine ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point
阿仁鉱山(あにこうざん)は、秋田県北秋田市にあった鉱山である。金、銀、銅が採掘され、とくに銀鉱、銅鉱の産出が多く、1716年(享保元年)には産銅日本一となり、長崎輸出銅の主要部分を占めた。御用鉱山から久保田藩(秋田藩)の藩営となり、明治初年に官営鉱山となったのち、1885年(明治18年)に古河市兵衛に払い下げられた。閉山されたのは、1978年(昭和53年)のことであった。 == 沿革 == 江戸時代前期の寛文年間(1661年-1672年)に開坑されたといわれる(寛永開坑説もある。詳細は「阿仁銅山発見二説」節で後述)〔岩崎(2011)pp.30-33〕。元禄14年(1701年)に銅山直営化(秋田藩営化)を経て、宝永5年(1708年)の銅・鉛を合わせた産出高は360万斤にのぼった〔。17世紀後半から18世紀初頭にかけての時期に繁栄期をむかえた〔岩崎(2011)p.30。原出典は「秋山光春日記結要」所収『秋田郡阿仁銅山次第聞書』〕。安永2年(1773年)、秋田藩では平賀源内を招聘して鉱山技術指導を受け、翌安永3年には米代川の支流阿仁川と藤琴川(上流で鉛を生産)の合流点に加護山製錬所を建設している〔。 *1309年: 金山が発見されたという。 *1387年: 湯口内、向山に銀山が発見されたという。 *1637年: 一説に大坂の商人、北国屋吉右衛門の手代である高岡八右衛門が小沢銅山を発見したという。 *1644年 - 1647年: 近江商人、青山清左衛門が経営。向山舐沢銀山が閉鎖。 *1702年: 阿仁銅山が佐竹氏秋田藩の直営となり、銅山奉行の支配するところとなった。 *1716年: 銅産日本一となる。 *1744年: このころまでに、小沢、大沢、真木、三枚、一の又、二の又、萱草の七山が開発されている(ときには天狗平、黒滝、糠内、嘉久知を加え阿仁十一山とも呼称された)。 *1773年: 平賀源内が技術指導のため来山。 *1784年: 天明の大飢饉で鉱山開発は中絶した。 *1790年: 秋田藩により鉱山が復活。 *1871年: 秋田県庁の経営となる。 *1875年: 工部省鉱山寮の経営となる(官営鉱山)。 *1880年: お雇い外国人としてドイツ人メッケルおよびライヘルが来山。 *1882年: 新式精錬所を開設。 *1885年: 古河市兵衛に払い下げとなり、古河阿仁鉱山の経営となる。 *1931年 - 1935年: 世界恐慌のため、銅の価格が下がり、一時休山となる。 *1933年: 従来全く放棄されていた二十四孝の山頂部に金山が発見され、採鉱が開始される。 *1970年: 生産操業が中止される。 *1978年: 閉山となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿仁鉱山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|