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阿倍 内麻呂(あべ の うちまろ)は、飛鳥時代の政治家。『日本書紀』で、阿倍倉梯麻呂と記される人物と同一と考えられる。姓は臣。阿倍鳥子の子。大化の改新で左大臣に任じられた。 == 生涯 == 推古天皇32年(624年)、大臣の蘇我馬子が推古天皇に葛城県の譲渡を要求し、内麻呂と阿曇連が遣され天皇へ奏上している。推古天皇はこの要求を拒否した。 推古天皇36年(628年)、推古天皇が崩御すると田村皇子と山背大兄王が有力な皇位継承候補となった。大臣の蘇我蝦夷は内麻呂と議して自邸で群臣と皇位継承について諮った。群臣の間で意見が分かれたが内麻呂は田村皇子こそが推古天皇の意中であったと主張した。蝦夷の望みも田村皇子であり、結局、田村皇子が即位した(舒明天皇)。 皇極天皇4年・大化元年(645年)、中大兄皇子と中臣鎌子により蘇我入鹿が暗殺され、父の蝦夷は自殺して蘇我本宗家は滅亡した(乙巳の変)。皇極天皇は譲位し、孝徳天皇が即位して新政権が発足した。左大臣には内麻呂が、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂が任じられ、各々金策を賜与されている。内麻呂は豪族を代表する重鎮として、また娘の小足媛を孝徳天皇の妃とし、有間皇子を儲けていることから新政権の中枢に加えられたと考えられる。 大化4年(648年)、内麻呂は四天王寺で仏像4体を迎えて法要をとり行った。 大化5年(649年)、薨御。 孝徳天皇が朱雀門まで来て哀悼し、皇極前天皇・皇太子をはじめ群臣が哀哭した。なお、その直後に、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂は謀反の密告があり、自殺に追い込まれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿倍内麻呂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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