|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 古 : [ふる] 【名詞】 1. used 2. secondhand ・ 柏 : [かしわ, はく, ぽー] (n) oak
ヤクブ・ベク(Yakub Beg, 1820年 - 1877年5月30日) はコーカンド・ハン国出身のウズベク人軍人・指導者。イラン系のタジク人とする説もある〔陳舜臣『熱砂とまぼろし シルクロード列伝』角川書店,1979年。今谷p154〕。清末の混乱に乗じて東トルキスタンに入り、タリム盆地一帯を制圧した (ヤクブ・ベクの乱) が、左宗棠に討伐された。中国語では阿古柏と表記する。ヤークーブ・ベクとも表記される。 == 生涯 == 1864年、東トルキスタン各地のムスリムが清朝支配に対する大反乱(回民蜂起)を起こすと、コーカンド・ハン国の軍人であったヤクブ・ベクは翌年兵を率いてタリム盆地に入り、カシュガル、エンギシェールなどの清軍駐屯兵を破った。さらに1866年にはヤルカンド、ホータンを占領してタリム盆地西部を掌握し、1870年には東部のトルファン、さらには天山山脈を越えたウルムチをも攻略、翌年にはイリ地方も占領して、清朝の勢力を東トルキスタン主要部から追い落とした。 当時、大英帝国とロシア帝国は中央アジアの支配をめぐって角逐を繰り広げており(「グレート・ゲーム」も参照)、ヤクブ・ベクは英領インドから大量の武器援助を受け、1874年には英国と条約を結んでいる。英国はカシュガルに領事を常駐させた。この条約でヤクブ・ベクはカシュガルとヤルカンドのアミールと称したので、英語ではヤクブ・ベクの王国をカシュガル王国と呼ぶ。彼はまた西トルキスタンのブハラ・ハン国やトルコのオスマン帝国とも通交した。特にオスマン帝国とは、ヤクブ・ベクの政権に対するオスマン帝国の宗主権を認める代わりに武器の援助や軍事顧問の派遣を求める交渉を行い、オスマン帝国から正式にアミールに任じられるなどの一定の成果を得た。 ヤクブ・ベクは、イスラーム的な価値を重視・強調することで地元住民からの支持を得ようとした。その現れとして、東トルキスタンにおいてモスクや聖者廟に対する保護や寄進を盛んに行ったことが挙げられる。。 1876年3月、清朝の欽差大臣左宗棠がドイツのテルゲ商会の協力もあり、8万9000の兵力を率いて粛州に進駐した〔今谷p189〕。同年6月、ヤクブ・回軍と清軍は黒溝駅で衝突、ヤクブ・回軍は大敗した〔今谷p191〕。ヤクブが死守しようとした古牧地、ウルムチ三城は陥落した。7月には清軍は天山北路の回軍をすべて制圧する〔今谷p191〕。 冬を避けて翌年1877年、清軍はウルムチの東南の達坂城を攻撃、火攻めによって制圧した〔今谷p192〕。 ヤクブ・ベク王国を英露の緩衝国とみなしていた英国もこの清の猛攻に驚き、ヤクブ側はサイード・ヤクブをロンドンに派遣した〔今谷p192〕。サイード・ヤクブは、インド省のフォーサイスを通じて、ヤクブ・ベク王国は、ビルマと同様、清の宗主権を認める用意があると伝えた〔今谷p192〕。同年6月、英国インド省のソールズベリはこれを受けて、清とヤクブ側との会談を準備したが、このときすでに清軍はトルファンを総攻撃していた〔今谷p192〕。清朝廷でも、左宗棠と対立する海防派はイギリスの提案を受けるよう李鴻章に打電している〔今谷p192-3〕。 ヤクブ・ベクはトルファン陥落を聞いて、5月30日にコルラにおいて服毒自殺したといわれる〔今谷p194〕。ヤクブ・ベクの自殺情報がイギリスに届いたのは7月16日であった〔今谷p194〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヤクブ・ベク」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yaqub Beg 」があります。 スポンサード リンク
|