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阿史那菴羅 : ウィキペディア日本語版
阿史那菴羅[あしな あんら]
阿史那 菴羅(あしな あんら、拼音:āshǐnà ànluó、生没年不詳)は、突厥可汗佗鉢可汗の子。ソグド語による原音はマガ・ウムナ・カガンブグト碑文による。〕。
== 生涯 ==
581年、佗鉢可汗が病にかかり、臨終の際、子の菴羅に「吾の父子関係において親しみ過ぎてはならないと聞いた。だから、吾の兄(木杆可汗)はその子(大邏便)を親しくせず、我に国を委ねた。それがあるので我が死んだら、汝は大邏便を避けよ」と遺言し、死去した。
佗鉢可汗が死ぬと、国人たちの中で大邏便を立てるか、菴羅を立てるかで意見が分かれた。大邏便の母は身分が低く、菴羅の母は高貴な身分の生まれだった。突厥の伝統としては母の尊卑を重んじるが、なかなか決めかねていた。そこへ乙息記可汗の子の爾伏可汗摂図が菴羅へ賛成票を投じ、国人たちは年長者の彼にはばかって、反論する者もおらず、世継ぎは菴羅に決定した。
しかし、可汗位に立てなかった大邏便が菴羅に心服せず、毎回人を遣わしてこれを罵辱したので、菴羅はこれを制止することができず、国を摂図に譲った。国人たちも「四可汗(乙息記可汗,木杆可汗,佗鉢可汗,褥但可汗)の子の中では摂図が最も賢い」とし、摂図は正式に即位して伊利俱盧設莫何始波羅可汗と号し、菴羅は独洛水に移り住み、第二可汗と称した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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