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張 惠妹(チャン・ホェイメイ、プユマ族名グリライ・アミトゥ(Kulilay Amit)〔A *mei's International 公式サイト 〕)は台湾の歌手。台湾原住民のプユマ族(卑南族)出身。愛称は阿妹(アーメイ)。妹は歌手・俳優の張惠春 (1977年7月7日 - ) 。また、惠春 (Saya) と、従姉妹の陳秋琳 (Raya) によるユニットに阿妹妹(アーメイメイ)がある。 ==経歴== 1972年8月9日、台湾東海岸の都市台東郊外の村で生まれる。台湾の勝ち抜き歌謡番組“五燈奨”で25人勝ち抜きを果たし優勝。その後台北のライブハウスで歌っていたところ、フォワードレコード(豐華唱片)にスカウトされる。1996年レコード会社の先輩チャン・ユーシェン(張雨生)のアルバムでデュエットをしCDデビュー。同年12月アルバム『姊妹』にて正式デビュー。新人ながら連続9週売り上げチャート第一位の記録を打ち立て、台湾だけで100万枚以上の売り上げを記録する。翌1997年発売のセカンドアルバム『BADBOY』も連続9週チャート第一位。台湾のみならず香港・シンガポール・中国を席捲し、台湾ではそれまで注目されていなかった原住民族の歌手に注目が集まり“原住民ブーム”を巻き起こす。 2000年5月、陳水扁の中華民国総統就任式にて中華民国国歌を歌唱したため、中華人民共和国政府の怒りに触れ“封殺事件”と言われる中国での出演CMの放送取りやめ、コンサートの中止などという事態に追い込まれる。(中国政府は関与を否定している) 2001年、レコード会社をワーナー(華納)に移籍、夏には大陸のイベントにも参加し復帰を果たす。 2002年、TIME誌アジア版の「アジアのヒーロー」25人に選出される。〔〕 ちなみに中華圏の芸能人で選出されたのはジャッキー・チェンとアーメイの2人のみである。 2004年、久々に中国のCMに出演するも、6月台湾独立に抗議する大学生達のデモによりイベントへの出演が急遽取りやめになる“杭州事件”に遭遇。その後「中国におもねっている」と台湾国内でも一部政治家から非難を浴びる。 本人はこれまで一貫して政治的立場を表明しておらず、出身地域が保守的な場所ということも考えると“台湾独立派”というのは誤解と思われる。類い希なる実力を持ちながら、政治に翻弄されている悲運の「台湾国産天后」である。 2005年10月29日、東京国際フォーラムで行われた第2回日中友好歌謡祭に参加した。 2007年4月16日、レコード会社をEMIに移籍〔〕。 2008年3月27日~5月22日、東京・大阪・名古屋で上演された祝祭音楽劇『トゥーランドット』で、題名役として本格的に日本で舞台デビューを果たす(ケガで降板したケリー・チャンの代役)。 2008年9月22日、23日の二日間、赤坂ACTシアターにて日本初ライブとなる「アーメイ(張惠妹)ACTシアター スペシャル ライブ」が開催された。 2010年4月18日、赤坂BLITZにて阿密特名義のライブ「2010 阿密特/張惠妹世界巡廻演唱會」が開催される〔DISK GARAGE 〕。 2010年6月26日、2009年にリリースしたアルバム『阿密特』により、第21回金曲奨にて6部門を受賞した。中でも最優秀女性歌手賞は張惠妹が8年間待った賞だった。6部門での受賞は金曲奨史上誰もなしとげたことのない記録として、歴史に刻まれた。 2010年10月30日、台灣ゲイパレードにおいて二度目のレインボー大使を務めた。このパレードは3万人が参加し、再度アジア最大のゲイパレードに返り咲いた。 2011年4月23日、新アルバム『你在看我嗎?』を全世界でリリースした。このアルバムは15枚目のスタジオアルバムであり、また中華圏音楽業界での15年にわたる張惠妹の存在感を示した。 2011年8月6日・7日、東京の2会場にて開催された『久石譲&新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ~Love Songs~』にてボーカルとして参加した。〔〕 2014年 EMI Taiwanとの契約継続後、中華圏のウェブサイトに7月1日にアップロードされたことを受けて『偏執面』を7月2日(当初予定は7月4日)にリリースした。このアルバムは他のアーメイのアルバムから離れて、音楽と歌詞に暗い要素を含んでいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張惠妹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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