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阿川 甲一(あがわ こういち、1870年(明治3年)11月 - 1948年(昭和23年)6月)は、日本の実業家。満洲阿川組社長、長春倉庫運輸株式会社社長、長春日本人商工会議所会頭などを務めた〔『亡き母や』187頁〕。 作家阿川弘之の父で、法学者阿川尚之、エッセイスト阿川佐和子の祖父。 == 経歴 == 1870年山口県美祢郡伊佐村(現美祢市伊佐町)の農家に生まれた。父は阿川利七(阿川家の7代目)、母はのし〔『亡き母や』 138頁〕。阿川家について阿川弘之によると「我が阿川家からは、朱子学蘭学を学んだ者も、勤皇の志士も、郷土史に名を残すほどの篤農家も出てゐないらしい。要するに代々平々凡々たる中くらゐの自作農であつたと思はれる」という〔。甲一は8代目を継ぐ立場だったが、数え20歳になって早々、代言人(いまの弁護士)を志して郷里をはなれ、家督を甥の太七に譲る〔。 1891年関西法律学校(関西大学の前身)卒業〔『亡き母や』 142頁〕。1893年和佛法律学校(法政大学の前身)卒業〔。帝国議会開会中、東京通信社社員となり、議事報告に従事する〔『亡き母や』 142頁〕。ウラジオストックへ渡って露語を研究する〔『亡き母や』 146頁〕。 1894年シベリアで鉄道建設工事を請負う〔『亡き母や』 148頁〕。1897年鉄道建設作業が終わり、ハバロフスクに移り住む〔『亡き母や』 150頁〕。ドイツ人商人ゲーツマンに見込まれ、食料雑貨]]毛皮販売ゲーツマン商会の会計事務を取扱う〔。月給75ルーブルの番頭の地位を得る〔。 1899年ゲーツマン商会を辞し、満州へ入ってハルビンに居を定め、写真店を開業する〔『亡き母や』 152頁〕。1900年東清鉄道のロシア人技師長と契約を交して日本人の石工を提供し、松花江に架る鉄橋の礎石建設工事を請負う〔。在留日本人惣代、民会長の役に就く〔『亡き母や』 153頁〕。 1901年帰朝〔。8年に及んだ大陸生活を一旦打ち切って大阪へ帰る〔。1904年日露戦争勃発、文官通訳官として満州の戦線へ出る〔身分は将校待遇の文官通訳官、秋山好古将軍麾下の秋山支隊騎兵第十四聯隊所属(『亡き母や』155頁)〕。戦後、長春に土木建築請負業阿川組〔初期の名称阿川工程局、のち改名して阿川洋行〕を設立。 1920年、満州での事業を支配人にまかせて引退する〔『亡き母や』 11頁〕。満州時代の友人が「酒が佳くて魚は新鮮、野菜が豊富、隠居暮しには最適の城下町〔」と広島転住を勧めるので、大阪の家をたたみ広島へ居を移す。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿川甲一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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