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日野 邦光(ひの くにみつ)は、南北朝時代の公卿。権中納言日野資朝の子だが、母は不詳である。南朝に仕えた。幼名を阿新丸(くまわかまる)といい、『太平記』巻2「阿新殿事」に見える敵討の逸話によって古来著名である。 ==経歴== 元亨4年(1324年)後醍醐天皇の倒幕計画に参画した父資朝が北条氏に捕らわれ、佐渡に配流された(正中の変)。その直後から一家は仁和寺の近辺に隠棲していたが、元弘2年/正慶2年(1332年)13歳の阿新丸は母の反対を押し切って佐渡に渡り、父との面会を求めたものの叶えられず、既に守護代本間入道によって謀殺されたことを知ると敵討を決意する。夜間嵐に乗じて父の仇本間を襲い、入道は獲られなかったが、斬手の本間三郎(入道の甥という)を刺し殺した。その後、山伏に助けられて本間の追手をやり過ごし、商人船に乗って佐渡から脱出したという。 建武政権下では後醍醐に仕え、延元元年/建武3年(1336年)3月に派遣された石清水臨時祭舞人の中に「左兵衛権佐邦光」と見える。延元4年/暦応2年(1339年)石見国司として新田義氏と共に同国へ下向。翌興国元年/暦応3年(1340年)8月豊田城で守護上野頼兼率いる北軍を一旦退けたが、10月その反撃に遭って敗れ、次いで稲積城に立てこもったものの、興国2年/暦応4年(1341年)2月再び頼兼に攻められて落城した。 その後は石見を離れて左兵衛督に転じ、後村上天皇綸旨の奉者となったが、正平5年/観応元年(1350年)10月宇治惟時の帰参を促すべく、勅使として九州へ下向。正平7年/文和元年(1352年)肥後に在国し、惟時に対する帰参の条件として、征西将軍懐良親王の吹挙と菊池武光の請文を約束した。 正平9年/文和3年(1354年)6月までに権中納言に任じられ〔『名和文書』正平9年6月18日付後村上天皇口宣案に「上卿日野中納言」と見える。〕、正平16年/康安元年(1361年)12月四条隆俊・細川清氏らと京都に乱入し、将軍足利義詮を近江へ一時駆逐したが、以後は史料上の所見がない。『南朝公卿補任』によれば、正平18年(1363年)薨去した。 明治時代の修身教育においては、忠孝二つながら全うした人物として大いに喧伝され、大正4年(1915年)11月10日に正三位を追贈されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日野邦光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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