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阿曽三右衛門(あそさんえもん、1611年(慶長16年) - 1687年(貞享4年))は、越中国砺波郡野尻郷本江村生まれの郷士。 江戸時代初期に福野町(現在の富山県南砺市福野)、福光町(現在の富山県南砺市福光)、津沢町(現在の富山県小矢部市津沢)の町立てを行った。 == 生い立ち == 伝わっているところでは正親町天皇のころ(安土桃山時代)、越後藤田の庄司上保行則の嫡孫であった上保太郎為則は越中砺波郡上島(現在の砺波市神島)に移り住み、二万石の領地を有していた。上保為則は木舟城主石黒成綱との争いに敗れた後、その長子為直を百姓とし、次子重信を僧侶とした。(富山県砺波市神島の円光寺の祖)。また為則の側室、照の方にも男子があったが、世情をはばかって、母方の阿曽の姓を名乗った。これが三右衛門である。三右衛門は、七歳の時、父上保為則と死別し、その後、砺波郡本江村の郷士阿曽家で養育された。母の照の方の三~四代先の阿曽孫八郎は、15世紀の加賀一向一揆の時、加賀の守護であった富樫正親の招きに応じ、倶利伽羅山で戦った武将であった。戦功をたてたとされるが、一揆で敗れた後の行方は定かではない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿曽三右衛門」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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