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阿朮 ( リダイレクト:アジュ ) : ウィキペディア日本語版
アジュ

アジュまたはアチュ( 転写: 、現代モンゴル語: 転写: 、AjuAču)は、モンゴル帝国武将。『元史』での漢字表記は「阿朮」。『集史』クビライ・カアン紀では آجو Ājū/ آچو Āchū 、同じく『集史』バアリン部族誌ほか『集史』系統の系図史料である『五族譜』『高貴系譜』記載のクビライの部将序列一覧では اوجو Ūjū と表記されている。
祖父はチンギス・カンに仕え、「四狗」(ドルベン・ノガス)の1人として有名な勇将・スブタイ。父はオゴデイ時代からモンゴル帝国の覇業に貢献したウリヤンカダイである。アジュも父と共にモンケの時代から仕えて、ベトナム遠征など各地を転戦して武功を挙げた。
第4代皇帝モンケによる南宋遠征では、父ウリヤンカダイと共に従軍し、精鋭を率いて先鋒軍に加わった。大理国征服(雲南・大理遠征)や陳朝交趾)の降伏にも活躍し、モンケからその功を賞されて黄金300両を下賜された。1259年モンケ没後の後継者争いでは父と共にクビライを支持した。金蓮川でのクビライの即位以後は親衛軍であるケシク(宿衛)に留まった。
1262年山東の漢人諸侯・李璮(りたん)の反乱の際には、モンゴル王族カピチ(親王 哈必赤ジョチ・カサルの子?)を司令とする史天沢らが討伐軍として派遣されたが、アジュは王族バイジュ(拝出)、テゲ(帖哥)らの軍に従軍し李璮討伐でも功績を上げた。同年9月頃、宿衛(ケシク)将軍から征南都元帥に任じられ、汴州を治め、宿州を回復したほか、至元元年に入って1264年9月頃には両淮地方の計略に努め、さらに名声を上げた。
1268年よりクビライによる南宋攻めが始まると襄陽攻略の総司令官として襄陽を包囲・攻撃する。敵将・呂文煥の徹底抗戦に苦しんだが、史天沢と共に投石機による攻撃などで襄陽の支城である樊城攻略で大功を挙げ、その結果として1273年には遂に呂文煥を降伏させた。
1274年以降から「南宋攻略」では、丞相バヤンが南宋遠征軍の総司令となり、水軍を統括していた参政・阿里海牙とともに遠征軍を指揮することになった。1274年正月に阿里海牙から南宋遠征を奏上しているが、アジュもこれに遠征に賛意する上申を行っており、これを受けて丞相バヤンを総司令とする遠征が開始された。これに伴い、同年4月にはアジュも平章政事として丞相バヤンを補佐することとなる。アジュは呂文煥と共に先鋒を命じられていることから、襄陽平定に5年もかかったために解任されたと伝わる。アジュはこの攻略戦でも手柄を挙げた。
『集史』バアリン部族誌のバヤンの条によると、「スブタイ・バアトルの子孫アジュ( اوجو Ūjū)が彼(バヤン)とともに(クビライ)のノコルとなり、30テュメン(万戸隊)のモンゴル軍と70テュメンのヒタイ(軍)とともに南宋遠征(jang-i Nangiyās)に派遣した」とあり、『五族譜』のクビライの部将序列一覧でも「ウリヤンカト部族出身のスブタイ・バハードゥルの子孫で、テュメンのアミールであった。ナンギヤス(南宋)地方征服のための30テュメンのモンゴル軍の統率者として、 سمكه بهادر Samaka Bahadur(史天沢のことか?)とともに任命された」と説明されている。『集史』ではバヤンに比べてアジュへの言及は少なく、彼の出身部族である『ウリヤンカト部族誌』には事績が記載されていない。
1280年に死去。享年54。
死後、クビライより河南王の地位を追贈された。
『元史』巻百二十八に列伝がある。
== アジュが参加した戦争・戦闘 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アジュ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Aju 」があります。




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