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阿梅(おうめ、慶長4年〔(1599年)または慶長9年(1604年) - 延宝9年12月8日(1682年1月16日))は、江戸時代前期の女性。真田信繁の三女。仙台藩家臣片倉重長の継室。 == 略歴 == 真田信繁の三女。母は高梨内記の娘〔竹林院との説もあり。〕。信濃で生まれる。通説では、享年78から慶長9年(1604年)生まれとされているが、信繁の九度山時代の生まれとなってしまい、信濃で生まれたとする『左衛門佐君伝記稿』の記述と一致しない。菩提寺の当信寺の位牌には享年83とあり、この場合慶長4年(1599年)生まれとなって、信繁が信濃上田城にいた頃の誕生となる〔慶長4年生まれとすると、大坂城の落城時に16、7歳だったという『老翁聞書』の記述とも一致する。〕。 慶長19年(1614年)、父・信繁に従い大坂城に入城する。翌慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣において、落城する大坂城から仙台藩の家臣・片倉重長に保護された。経緯については、落城の混乱に際して乱取りされたという話と、信繁が片倉重長を見込んで託したという話がある。(後述) 寛永3年(1626年)に重長の正室が没した後、継室(後妻)となった。弟の大八(片倉守信)、妹の阿菖蒲(片倉定広室)も、姉の縁により片倉家に身を寄せた。重長との間に子は生まれず、前妻の娘の子・景長を養子とした。 重長は阿梅を滝川某の養女にする手続をふんでから正式な妻としたという。養女に関しては、信繁の妹婿・滝川一積の養女となり、滝川家から片倉家へ嫁いだという説と、信繁の姉婿・小山田茂誠が養女に迎えて、小山田家から片倉家へ嫁いだという説〔〕の二つがある。重長が継室とするに際して、真田家の女であることを隠すために工作を依頼したことは十分に考えられる。 慶安元年(1648年)、阿梅は白石城下に月心院〔幸村法号・月心院単翁宗伝大居士より命名。宮城県白石市森合にあったが、重長が起こした傑山寺に併合された。〕を建立し、父の菩提を弔った〔現在は廃寺。〕。功徳山当信寺〔在宮城県白石市本町62。〕(浄土宗)においても、父・信繁と竹林院の供養を行っている。 阿梅は延宝9年に没した。法名は泰陽院殿松源寿清大姉。片倉氏2代の菩提寺である当信寺に墓所があり、如意輪観音像を墓標としたものであるが、墓石を削った粉を飲めば歯痛に効くという迷信が広まり、原型を留めていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿梅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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