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阿蘇氏(あそうじ/あそし)は、「阿蘇」を氏の名とする氏族。 肥後国の氏族で、阿蘇神社大宮司家(だいぐうじけ)である。名の通り熊本の阿蘇を出自とするが、最盛期は阿蘇の南、矢部郷(やべごう、熊本県上益城郡山都町の一部)に南阿蘇から拠点を移転した後の「浜の館」時代であり、菊池氏や相良氏と並び熊本を代表する一大豪族であった。朝廷から度々高位の職階を叙し、内紛を繰り返しながらも長らく系譜が受け継がれてきた。 大和朝廷の支配が及ぶ前からの地域の首長家で、神(火山神である健磐龍命)の子孫として神代の時代から現代に続く系譜を持つ家系でもあり〔八代市立博物館長阿蘇品保夫『一ノ宮町史 阿蘇社と大宮司』一の宮町発行、1999年、p.50〕、同様な家系は皇室や出雲大社の千家家、北島家のみである〔谷部町史編纂委員会編『矢部町史』昭和58年、pp.62-63〕〔瀧音能之『古代出雲を知る事典』東京堂出版、2010年、pp.83-85〕。 == 概要 == 阿蘇氏は多氏や火君、大分国造と同じく神武天皇の第二子神八井耳命を祖と称している。これについて、太田亮は神八井耳命の後裔が九州に多く存在していることから、神武天皇が本拠地を近畿に移したのち、元の本拠であった九州を神八井耳命に賜り、その子孫が各地で繁栄したためであるとした。〔太田亮 『日本古代史新研究』磯部甲陽堂, 1928年〕 阿蘇氏は阿蘇山の神への司祭的立場にあったものが豪族化したものと考えられている。この司祭的豪族は阿蘇の君と呼ばれ、後に大和の大王家(朝廷)が九州各地に勢力を持った頃には、大王には逆らわず領地を献上し県主となり、さらに県制から国造制への転換の中で、阿蘇国造として権力を持ったとされる。旧事本紀には、健磐龍命の子とされる速瓶玉命が初代阿蘇国造であったと記録されている。阿蘇神社の付近には速瓶玉命と妃神雨宮媛命を祀った国造神社も存在している。 神八井耳命の子である健磐龍命が大和の大王家より派遣され、阿蘇の君の姫、阿蘇都媛命と婚姻し現在の阿蘇氏の祖となったという伝承と、景行天皇の九州巡幸の際、阿蘇都彦命(=健磐龍命、あそつひこのみこと)、阿蘇都媛命(あそつひめのみこと)の両神が出迎えたという伝承とがある。 火の君、阿蘇の君、筑紫の君の三君は、元々九州で勢力を持っており、ヤマトの勢力が火の君、筑紫の君を滅ぼした後、阿蘇の君を取り込む為、天皇家(大王家)につながる系譜をついだともされる。 そもそも、健磐龍命とは、火山そのものである。健磐とはつまり巨岩の事であり(崩落し火口湖へ落ちたとの記録がある)、それと龍(=火口湖の主・水神)への二つの信仰を統合したものが神名である。その噴火・発光、湯だまりの変異等の自然現象が起きる度に、神霊現象として中央へ報告され、神階が上昇し、封戸が与えられるなどしていた。これら、阿蘇山への信仰・祭礼の記録は、隋書倭国伝にみられる。阿蘇氏は、阿蘇山信仰を司る神官であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿蘇氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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