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阿部 豊(あべ ゆたか、明治28年(1895年)2月2日 - 昭和52年(1977年)1月3日)は、ハリウッド無声映画期の俳優、また日本の映画監督。 == 来歴 == 宮城県桃生郡矢本町(現在の東松島市)の出身。1912年、ロサンゼルス在住の叔父をたよって渡米。演劇学校を経て、ハリウッドに渡る。 数々の映画にエキストラ出演するうちに、早川雪洲ら米国在住の日本人俳優と交流するようになり、早川の薦めでセシル・B・デミル監督の『チート』で本格的に映画デビュー。「ジャック・アベ」、「ジャック・ユタカ・アベ」の芸名で、ハリウッド映画で活躍。トーマス・H・インス(Thomas H. Ince)、フランク・ボーゼイジ(Frank Borzage)の両監督からは演出術を学び、映画監督になるべく帰国。 大正14年(1925年)に日活大将軍撮影所に入社して『母校の為めに』で監督デビューする。翌大正15年(1926年)にはハリウッドのソフィスティケート・コメディを日本映画に移植した『足にさはった女』を制作して、日本映画に新風を吹き込んだ。 太平洋戦争中は東宝で活躍し、円谷英二の特撮を存分に生かした『燃ゆる大空』、『南海の花束』、『あの旗を撃て』などの国策戦争映画に辣腕を奮う。 終戦直後の昭和23年(1948年)には、久板栄二郎の脚本により島崎藤村の『破戒』映画化に挑む。久しく俳優業から遠ざかっていた池部良を主演に迎え、市川崑や大日方伝なども参加したこの作品は、日本映画の復活を目指したものだったが、同年発生した東宝争議によって映画化は頓挫する〔なお、この映画化は松竹が受け継ぐこととなり、木下惠介監督により完成された。〕。これによって阿部は東宝に見切りをつけ、新東宝に移籍することとなった。 新東宝では『細雪』などの女性映画に才能を発揮する一方、戦後史もの『私はシベリヤの捕虜だった』や大作『戦艦大和』などの戦争映画も手掛ける。また撮影3日目で病気降板した佐分利信監督の後を継いで、二・二六事件の初映画化である『叛乱』の監督も担当している。終戦時の宮城事件を描いた昭和29年(1954年)の『日本敗れず』では、自らプロデューサーもこなし、早川雪洲に阿南惟幾陸相役(映画での役名は川浪陸相)をオファーした。 日活が製作再開すると同社に戻り、小林旭主演の『二連銃の鉄』などのヒット作を量産した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿部豊」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yutaka Abe 」があります。 スポンサード リンク
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