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阿部 九洲男(あべ くすお、1910年7月24日 - 1965年11月2日〔『CD-人物レファレンス事典 日本編』、「阿部九州男」の項、日外アソシエーツ、2004年。〕)は、日本の俳優である。初期の芸名は春見 堅太郎(はるみ けんたろう)、本名は伊東 石太郎(いとう いしたろう)である〔『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.127。〕。 == 人物・来歴 == 1910年(明治43年)7月24日、神奈川県横浜市寿町(現在の同県同市中区寿町)に「伊東石太郎」として生まれる〔〔。 満19歳を迎える1929年(昭和4年)、古海卓二監督の紹介で京都の市川右太衛門プロダクションに入社〔、「春見堅太郎」の芸名で〔、同年、城戸品郎監督の『髪』に出演、大貫三郎衛門役を演じる。市川右太衛門に師事する〔『講談倶楽部』昭和11年新年号付録、講談社、1936年、「阿部九洲男」の項。〕が、1931年(昭和6年)には関東に戻り、東京・巣鴨の河合映画製作社に移籍する〔。同年、村越章二郎監督の『清水の小政』に出演している〔。同年、芸名を「阿部九洲男」に改名し、京都に再び舞い戻って、東活映画社(東活)に入社した〔。同年の東活入社第1作は、金田繁監督の『閃影双刃録』で、古海卓二監督の『評判影法師』に主演し、人気を勝ち取る〔。同作で競演した女優の木下双葉とこのころ結婚している〔『無声映画俳優名鑑』、p.176。〕。 1932年(昭和7年)、阿部が月形龍之介と共演し、金田繁が大伴麟三と共同監督したサイレント映画『決戦荒神山』を最後に東活が解散となり、同作は新しく設立された宝塚キネマ興行が配給した。阿部は宝塚キネマに移籍した。東活、宝塚キネマを代表する剣戟俳優と言われるまでとなった〔。1933年(昭和8年)7月、宝塚キネマで賃金未払いが起き〔御室撮影所 、立命館大学、2009年11月9日閲覧。〕、これを契機に仁科熊彦・大伴麟三両監督による『風流やくざ節』前篇・後篇を最後に、妻の木下双葉とともに宝塚キネマを去り、東京に三度舞い戻り、巣鴨の河合映画の後身・大都映画に復帰した。大都では、師である市川右太衛門ばりの派手な雰囲気が評価され、海江田譲二、桂章太郎に比肩する人気を勝ち取り、杉山昌三九と並ぶ活躍をした〔。 1938年(昭和13年)8月30日、妻の木下双葉が病死、死別となった〔。その後、9歳年下の大都映画の女優・東龍子と再婚した。 1942年(昭和17年)2月、第二次世界大戦開戦による戦時統制で、大都映画は、日活の製作部門、新興キネマと合併し、大日本映画製作(のちの大映)となり、大都での阿部の最後の出演作は、佐伯幸三監督による近衛十四郎主演作『決戦般若坂』となった。同作は同年2月11日に公開され、阿部は、大映に継続入社した。大映入社第1作は、阪東妻三郎主演、牛原虚彦監督の『維新の曲』で、同年5月14日に映画配給社の配給、紅系で公開された。 戦後は、1945年(昭和20年)から、大映京都撮影所で丸根賛太郎監督の『狐の呉れた赤ん坊』等に出演した。1951年(昭和26年)には、宝プロダクションが製作した加藤泰監督の劇映画デビュー作『剣難女難 女心伝心の巻』、『剣難女難 剣光流星の巻』に出演している。新東宝、1956年(昭和31年)以降は東映京都撮影所作品に多く出演した。 1965年(昭和40年)11月2日、死去した〔。満55歳没。生涯に300作内外の映画に出演、生前に撮影していた作品が翌1966年(昭和41年)に3作も公開された。京都府京都市東山区下河原通八坂鳥居前下ル下河原町、高台寺に眠る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿部九洲男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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