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阿部 光雄(あべ みつお、1949年4月29日 - )は、日本の元オートレース選手。新潟県出身。6期、川口オートレース場所属。モーターサイクル・ロードレースレーサーの阿部典史は実子。 ==人物== 阿部はかつて、同じ川口オートレース場所属の広瀬登喜夫(期前、引退)、且元滋紀(9期)、篠崎実(9期)らと共に「川口四天王」と呼ばれたレーサーである。 雨の日に強いことから、「雨光雄」とも呼ばれた。落車事故による長期欠場などのアクシデントもあり、長らく無冠の時期が続いたが、1980年に地元川口で当時唯一の特別競走(現在のSG)タイトルである第12回日本選手権オートレースで優勝を飾った。今なお川口で最重ハンデに並ぶ猛者である。 明るく人当たりの良い性格で、互いに派閥の領袖として対抗意識を強烈に燃やしていた若き日の「川口四天王」の中にあって、唯一他の「四天王」とも仲良く接していた。且元が制覇した第13回日本選手権オートレースでは、自身も連覇を賭けて臨んでいたのだが、レース終了後には優勝した且元を祝福する様子が見られた。 青木治親のオートレース選手転向のきっかけを作った人物でもある。当時青木はスポンサーが見つからずシートを失う状況に陥っていた。一方、オートレース(日本小型自動車振興会)側では、1999年(27期)の選手募集時より、WGPや全日本ロードレース選手権などで優秀な成績を収めたものに限り年齢制限を28歳以下に緩めるほか(通常は23歳以下)、試験の一部を免除するといった特例枠を設けるようになった。オートレース選手募集は2年に1度しか行われないため、2003年の第29期選手募集が27歳の治親にとって最後のチャンスであった。息子・典史との関係で交流のあった阿部は青木の相談相手としてさまざまなアドバイスをし、最終的に青木は転向を決意したのである。青木のデビュー後も、同門である阿部は良き先輩として、そして良きライバルとして交流を交わしている。 還暦が迫りつつある現在も、高速バンクと化した川口走路でのスピード戦に付いて行き、それどころか若手を置き去りにするような競走を見せる。また、2006年9月24日のSG第10回オートレースグランプリでは第11レースの特別選抜戦で1着を獲るなど、下手な若手よりも遥かに強い。一方で、かつては「雨光雄」とまで言われた雨巧者ぶりは影を潜め、最近では全くと言って良いほど雨が乗れなくなってしまっている。しかし、雨に関しても新たな乗り方を模索するなど、停滞するどころか更なる進化の片鱗を見せている。 2007年10月7日、次男・阿部典史が交通事故により死亡してしまった。阿部は浜松オートレース場で開催されていたGI第49回秋のスピード王決定戦に出場していたが、翌8日に参加を解除し(解除事由は「家事都合」とされた)帰郷した。 10月31日から実戦に復帰した。復帰初戦はSG第39回日本選手権オートレース(飯塚オートレース場)の予選競走で、結果は3着であった。「一走してダメだったら、すぐに帰ろう」と、かつてないほど気落ちした状態で臨んだレースだったが、手応えを掴んだ阿部は最終日まで参加したのである。 現役時に阿部が使用していたヘルメットはいわゆる「ノリック・モデル」である。これは以前から使用していたが、選手権からはそれまで使用していたシルバー(オリジナルカラー)のタイプではなく、典史が生前実際に使用していたものを使用していた。 その後も長い間現役生活を続けていたが、2015年に集団引退選手の一人として発表され、12月31日には地元の川口で引退セレモニーが行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿部光雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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