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阿部吉朗 : ウィキペディア日本語版
阿部吉朗[あべ よしろう]

阿部 吉朗(あべ よしろう、1980年7月5日 - )は、愛媛県新居浜市生まれ、茨城県つくば市育ちの元プロサッカー選手
ポジションはフォワード(FW)
== 来歴 ==
愛媛県、大阪府で幼少期を過ごす。小学校3年生の時に茨城県つくば市に引っ越し〔 WEBサッカーマガジン (2003年4月9日)〕、そこで兄と共にサッカーを始めた〔 Jリーグ選手協会 (2007年10月19日)〕。1996年、「ナイター施設さえあれば良い〔21世紀の骨のあるヤツ @ぴあ (2003年4月22日)〕」と強豪校ではなく、地元の常総学院高等学校へ進学。質を量でカバーすべく猛練習を続けた。3年時には茨城県選抜として神奈川国体に出場した。
1999年流通経済大学へ進学し、サッカー部へ入部。まだ強化に力を入れたばかりの部ではあったが、同期の高木建太吉沢秀幸と共に厳しい練習を重ね、4年生の時に関東大学リーグ2部の得点王〔2002年 第76回関東大学サッカーリーグ戦・後期 得点 アシストランキング College Soccer Central〕 及びベストイレブンに選出。さらに、デンソーカップ・日韓大学定期戦では日本代表としてGK成京模を相手に2得点〔デンソーカップサッカー'02 公式記録 College Soccer Central〕、MVPに輝き〔デンソーカップサッカー'02 College Soccer Central〕、大学No.1FWとして注目を集めた。
2002年、関東大学選抜でのプレーがJリーグFC東京強化部の大熊清に目に留まり練習生として同クラブでの練習試合に出場。4得点を挙げる活躍で〔練習試合結果 VS 青山学院大 FC東京 (2002年3月24日)〕内定を得ると〔 FC東京 (2002年7月23日)〕、同年11月よりFC東京と正式契約を結び、クラブに合流〔 FC東京 (2002年10月31日)〕。流経大出身者としては初のJリーガーとなった。デビュー戦となる天皇杯の対湘南ベルマーレ戦では早速2得点。2003年にはカップ戦を含めて公式戦で2桁得点を記録。中心選手の1人として活躍したことで〔阿部吉朗(湘南ベルマーレ/愛媛県新居浜市出身)第3回「復活を期すためベルマーレへ」 SPORTS COMMUNICATIONS (2010年5月17日)〕、クラブからの大きな期待を受け2004年には長年に渡りクラブを支えたFWアマラオの背番号11を引き継いだ。元日本代表FWの原博実監督からはヘディングシュートを直伝された一方で〔磐田 阿部吉朗“ハラヒロミ直伝”のヘディングで2戦連発を狙う blogola (2013年9月26日)〕、本職では無い左MF(サイドハーフ)での起用に加えて、流れを変えるスーパーサブとしての役割を与えられた難しさから〔 東京中日スポーツ (2004年12月17日)〕 得点を伸ばせなかった。
2005年、FWでの起用と先発出場にこだわり〔 東京中日スポーツ (2004年12月30日)〕大分トリニータ期限付き移籍〔 FC東京 (2005年1月14日)〕〔 大分トリニータ (2005年1月14日)〕。しかし、大分でもサイドのMFに配されるなど目立った活躍を見せられず、同年8月、前線の駒不足に悩むFC東京に復帰〔 大分トリニータ (2005年8月27日)〕〔 FC東京 (2005年8月27日)〕。復帰戦となった戦で得点を挙げると〔選手出場記録 Jリーグ (2005年12月3日)〕、積極果敢なプレーで絶好の起爆剤となり その後の12試合無敗に貢献した。
2007年、かねてから阿部をストライカーとして高く評価していた〔阿部吉 柏移籍 1年間期限付き 東京中日スポーツ (2007年1月9日)〕柏レイソルへ期限付き移籍したが〔 FC東京 (2007年1月9日)〕〔阿部 吉朗選手がFC東京より期限付移籍加入 柏レイソル (2007年1月9日)〕 故障もあって結果を残せなかった。
2008年、湘南ベルマーレに完全移籍〔 FC東京 (2007年12月30日)〕。同年11月11日に入籍〔阿部吉朗選手 入籍のお知らせ J's GOAL (2008年11月16日)〕、2009年1月11日結婚。湘南では自身初となるJ2でのプレーとなったが、反町康治監督の下、FC東京在籍時以来となるチームの一体感を得て〔【ボイス:5月14日】阿部吉朗選手の声 湘南ベルマーレ (2010年5月14日)〕 出場機会を確保。得点力と献身的な守備で貢献した〔 神奈川新聞 カナロコ (2011年1月9日)〕。2009年J2最終節水戸戦では、0-2でリードされた状況から、同点ゴールと逆転ゴールの2得点を決めて〔公式記録 2009Jリーグ ディビジョン2 第51節第1日 Jリーグ (2009年12月5日)〕 湘南をJ1昇格に導いた〔阿部吉朗(湘南ベルマーレ/愛媛県新居浜市出身)第1回「J1昇格へ導いた不屈のストライカー」 SPORTS COMMUNICATIONS (2010年5月11日)〕。2010年はチームで唯一リーグ戦全試合に出場し、チーム最多の9得点を挙げたものの〔選手出場記録 Jリーグ (2010年12月4日)〕 J2降格を喫した。
J1でのプレーを希望し2011年ヴァンフォーレ甲府に期限付き移籍〔阿部吉朗 選手 ヴァンフォーレ甲府に期限付き移籍のお知らせ 湘南ベルマーレ (2011年1月8日)〕〔 ヴァンフォーレ甲府 (2011年1月8日)〕。先発出場を続けていたが〔選手出場記録 1/2 Jリーグ (2011年12月3日)〕 監督の交代とMF井澤惇の抜擢に伴う布陣の再編によって中盤以降は出場機会が激減し〔選手出場記録 2/2 Jリーグ (2011年12月3日)〕、1年限りで移籍期間満了により退団した〔阿部吉朗選手 期限付き移籍満了のお知らせ ヴァンフォーレ甲府 (2012年1月6日)〕。
2012年ジュビロ磐田に完全移籍〔阿部吉朗選手 ジュビロ磐田に移籍のお知らせ 湘南ベルマーレ (2012年1月6日)〕〔阿部吉朗選手 湘南ベルマーレより完全移籍加入のお知らせ ジュビロ磐田 (2012年1月6日)〕。動き出しの良さが評価され、切り札役として出場を続けた〔ベテラン阿部、猛アピール 「切り札」から先発狙う 静岡新聞 (2013年2月26日)〕。2014年は磐田での日本人最年長選手となる中〔磐田阿部 決めるぞバースデー弾 日刊スポーツ (2014年7月5日)〕「初心に戻ろう」と背番号を2003年にFC東京で着用した14番へ変更〔磐田、前田欠場の穴埋めた33歳阿部2発 日刊スポーツ (2014年2月6日)〕。
磐田からは契約延長を打診されていたが〔阿部に松本からオファー 磐田FW不足? 日刊スポーツ (2014年12月25日)〕、反町が指揮を執る〔松本、磐田FW阿部を獲得へ DF多々良は仙台へ完全移籍 スポーツニッポン (2014年12月31日)〕松本山雅FCからのオファーを受け、2015年より同クラブへ完全移籍〔阿部吉朗選手が松本山雅FCへ完全移籍 ジュビロ磐田 (2015年1月15日)〕〔阿部吉朗選手 ジュビロ磐田より完全移籍加入のお知らせ 松本山雅FC (2015年1月15日)〕。チャントはサポーター間で新しく募集したが、「思い入れがあるのでこれにして欲しい」という本人からの申し出で、FC東京時代からずっと受け継がれてきたユニコーンの「人生は上々だ」が使われることになった。24試合に出場し、5得点を挙げたが、12月1日に現役引退を発表〔阿部吉朗選手 現役引退のお知らせ 松本山雅FC (2015年12月1日)〕。引退の理由は、「『反町監督を男にしたい。山雅の力になりたい』と思い移籍して来ましたが、J1に残留する事ができず、僕自身の力不足を感じました。」とコメントし、FC東京から松本山雅までのチーム関係者や「最後のチームを自分で選ばせて下さった、ジュビロ磐田の関係者」などに感謝の言葉を贈っている〔7クラブに在籍…松本FW阿部吉朗が現役引退「感謝の言葉しかない」 サッカーキング (2015年12月1日)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「阿部吉朗」の詳細全文を読む




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