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阿部 美樹志(あべ みきし、1883年5月4日 - 1965年2月20日)は、日本の建築家および土木技術者。大正から昭和時代にかけて活躍した。日本最初の鉄筋コンクリート高架鉄道の設計者。通称コンクリート博士。日本の鉄筋コンクリート工学の開祖。Pf.D。また、阪急阪神東宝グループの建物、RC造の多くの構造物、建築物をつくり続けた。勲二等瑞宝章受章。 == 来歴 == 岩手県一関市生まれ。岩手県一関尋常中学校(一回生)時代には、一関尋常高小から岩手県一関尋常中学校二年に編入を許され、三段跳びで三年生に進んだ浅利三朗と首席を争う。明治25年、同じく岩手出身の佐藤昌介が校長だった札幌農学校土木工学科に進学。学費の一部は叔父から援助を受けるが、自らも特待生となり勉学に励む。佐藤校長は阿部の学才を惜しみ、学校に残って助教授となるよう切望するも、留学を希望した阿部は丁寧に断り、明治38年に、最優等で卒業し恩賜の銀時計を受ける。この銀時計は、後に学費援助をしてくれた叔父に贈り謝したという。卒業後、鉄道院に奉職。東京~万世橋間の高架橋など、鉄道施設設計に従事。留学に意欲を燃やす阿部は、勉学上有利な中部鉄道管理職の新橋保線事務所設計係に転勤させてもらう。そして、官費留学には農商務省の海外練習生になるのが近道だと聞かされ、再び佐藤昌介に紹介状をもらい、商務局長の大久保利武に会い、「セメント工業と鉄筋コンクリート研究」という留学目的論文を出し練習生受験を懇願した。 明治44年(1911年)には、農商務省海外練習生、鉄道海外研究生として、アメリカのイリノイ大学大学院理論応用力学科に進学し、朝5時に起き夜12時頃まで勉強する猛烈ぶりで、ドクトル・オブ・フィロソフィーの学位を取得、卒業。その後ドイツのハノーバー工科大入学を志しハンブルクに渡った。ハノーバー工科大でも鉄筋コンクリート工学を研究するが、ちょうど第一次世界大戦の最中であり、留学費が遅れがちとなる。そこで、ハンブルク駐在領事の忠告もあり、オランダから、ベルギー、ロンドン経由で帰国する。 大正3年末に帰国し、鉄道院に復帰する。帰国早々、まず東京ー万世橋間の高架鉄道設計に着手し、日本初の鉄筋コンクリート高架橋を建設させる。大正9年(1920年)、工学博士の学位をとり、以来コンクリート博士と呼ばれるようになる。大阪市内の環状高架線も含めた国鉄高架線や南海、近鉄など私鉄高架線の設計も委嘱される。同年3月、鉄道院を辞し、阿部事務所を開設。小林一三をパトロンに、梅田阪急ビルのほか、十三~梅田間および王子公園~神戸三宮間の鉄道高架橋、東京の日比谷映画劇場、有楽座、旧阪急梅田駅・阪急ビルディング、梅田阪急ビル(阪急百貨店)、阪急西宮スタジアム、東宝劇場、神戸阪急ビル(阪急三宮駅・通称阪急会館)などを設計。また竹中土木の初代社長。 戦後は小林一三についで戦災復興院(現国土交通省)の第2代総裁、建設院総務長官(建設事務次官)などを歴任。1949年、特別調達庁長官。1964年春の叙勲で勲二等瑞宝章。 アパートの鉄筋コンクリート構造化を進言し早速東京都営高輪アパートが鉄筋コンクリート造で建設され、以降不燃構造公営住宅の理論が確立する。 その他の作には、旧精工舎本社、沖電気工業本社屋、外濠アーチ橋、佐賀県庁舎、中央大学校舎、明治製菓旧戸畑工場、内外ビルディング、東洋ビルヂング、東京建物ビル、九州の名島川橋梁(西日本鉄道株式会社、土木学会選奨土木遺産、鉄筋コンクリート造アーチ橋)などがある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿部美樹志」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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