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阿部 致康(あべ おきやす、天正13年(1585年) - 正保2年(1645年))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士。 陸奥国湯長谷藩(福島県いわき市)の家臣、阿部五次右衛門家の祖。 == 経歴 == 准大臣勧修寺晴豊の五男。母は陰陽頭兼刑部卿土御門有脩の娘。兄弟に権大納言勧修寺光豊、蔵人頭甘露寺経遠、参議坊城俊昌、相国寺九五世鳳林承章など。実子に権大納言芝山宣豊。養子に阿部房豊(芝山宣豊の子)。 幼名は勧修寺致房(または、勧修寺致康)。官途は、従五位下・右衛門尉、右京亮。 はじめ神祇管領長上・吉田兼治の猶子、のち出家し愛宕山大善院の別当となる。 慶長8年(1603年)、兄・勧修寺光豊(武家伝奏)の命で、還俗し徳川家康に仕える。 のちに、徳川家康より偏諱「康」の字を賜い武士となる。 寛永3年(1626年)、大坂城代・阿部正次の猶子となり、阿部右京と称す。 養子(孫)・阿部房豊(五次右衛門)は、大坂定番・遠山政亮(初代・湯長谷藩主)に仕え、子孫は代々給人格(扶持米取)に列す。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿部致康」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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