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阿部野神社(あべのじんじゃ)は、大阪市阿倍野区北畠にある神社である。南朝方について各地を転戦した北畠顕家と、その父の北畠親房を祀る。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。 == 歴史 == 延元3年(1338年)に顕家が足利方に敗れて亡くなったと伝承される地に、明治8年(1875年)、地元の有志が顕家を祀る祠を建立したのに始まる。 明治11年(1878年)2月27日〔「大坂府別格官幣社阿部野神社社地ヲ住吉郡住吉村字薮山ヘ撰定 」、『公文類聚』第7編第62巻14、PDFファイルの3頁め。〕、東城兎幾雄・松本楚文ら15人〔請願者のうち、筆頭の東城兎幾雄は『皇統伝略』や『東摂神社一覧』の著者。戸田玄成は生國魂神社の大宮司。三輪俊之助は後に『兵事必携』を著す。福井武は後に島上郡の郡長。山田迪吉は同じ年に「全国一般三民会社創立ノ儀」を建白している(国立公文書館所蔵の『上書建白書・建白書・明治八年』に「全国一般三民会社創立ノ儀建白別冊方法書添(山田迪吉、津田作次郎)」として収録)。〕が東成郡阿部野村にある北畠顕家の墓を修繕し、社殿を造営したいと願い出た。大阪府は、建物と境内の面積、創建後の維持の方法、神官の受け持ちを定め、社地と墓地を区分した詳細絵図を添えてもう一度願い出るようにと答えた。請願者は400円を用意し、天王寺村内の土地の購入計画を立てた。再提出を受けた大阪府は、願いの通りにするよう請願書を添えて内務省に伺を出した。内務省は神社創建は請願通り、墓は民間に任せず官費で記念碑を建てるべきと判断し、それが9月21日に太政官政府の決定として下された〔「大阪府下ニ北畠顕家社殿及墳墓保存 」、『太政類典』56巻60。岡田米夫「神宮・神社創建史」49-50頁。〕 しかしこの決定から創建まではなお曲折があった。大阪府は、北畠顕家の忠誠は楠木正成・新田義貞・名和長年・菊池武時らと同じだから、顕家を祭る神社にもしかるべき社格を定めるべきではないか、という内容の伺を同じ年の11月20日に内務省に出した。内務省は3年後の明治14年(1881年)11月16日に北畠顕家と北畠親房の二人を祭神とする別格官幣社の阿部野神社を阿部野村に創建する方針を固め、それが明治15年(1882年)1月24日に太政官の正式決定となった。これにより、社格と名称が定まった。墓所に記念碑をたてる案は取り止めになった〔「大阪府下阿部野神社三重県下結城神社ヲ別格官幣社ニ列ス 」、『公文類聚』6編第59巻5。〕。 ところで、大阪で創建を進めていた有志は、参拝に便利な天王寺村字天下茶屋に神社を建てるつもりで、寄付金を集めて土地の購入に着手していた。阿部野村に建てる決定を知り、東城ら12人は〔1878年の請願者と数名入れ替わり、新たに加わった渡辺資政は後に阿倍野神社の社司になった。金沢仁作は後に実業家、衆議院議員になった。〕、土地を寄付するので社殿建築を有志に任せてほしいと3月22日に大阪府知事建野郷三に申し入れた。その後、天下茶屋の予定地は民家のそばで低湿だというので、近くの丘に変えることを有志のうちで議決し、6月2日に伊藤祐暉ら6名が大阪府知事に両地の図面を差し出した。大阪府も実地検分の上同意し、住吉郡住吉村藪山への変更を内務省に上申した。翌明治16年(1883年)、内務省は阿部野神社の宮司と東京で面談した上で、人民の願い通りにするのがよかろうと賛成し、3月7日に太政官が変更を決定した〔「大坂府別格官幣社阿部野神社社地ヲ住吉郡住吉村字薮山ヘ撰定 」、『公文類聚』第7編(明治16年)第62巻14。岡田米夫「神宮・神社創建史」50-51頁。〕。 社殿は明治20年(1887年)3月に完成し、鎮座祭は明治23年(1893年)3月に斎行された〔岡田米夫「神宮・神社創建史」51頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿部野神社」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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