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阿野 実顕(あの さねあき)は、江戸時代初期の公卿・歌人。阿野実時(内山上乗院道怡。還俗して休庵と号する)の子だが、祖父・右少将季時の名跡を継いで阿野家を再興した。初名は実政(さねまさ)、一時実治(さねはる)とも。 == 経歴 == 天正13年(1585年)5月に5歳で元服し、同日従五位下・侍従に叙任。天正20年(1592年)1月奏上して実政から実顕へ改名した。慶長6年(1601年)3月信濃権介、同12年(1607年)1月左近衛権中将を経て、同17年(1612年)12月参議として公卿に列せられる。さらに慶長19年(1614年)1月従三位、元和3年(1617年)1月正三位に昇叙され、同年9月には将軍徳川秀忠から山城国の家領478石余を安堵された。元和5年(1619年)1月権中納言となり、翌6年(1620年)8月従二位に叙される。これ以降は春日祭の上卿をたびたび務めた他、勅使・院使として江戸に下向することが多く、その際には将軍徳川家光の引見を受けている。寛永10年(1633年)12月権大納言に任じられるも、翌11年(1634年)3月には辞退し、同19年(1642年)1月に至り同8年に遡及して正二位の位記を賜った。正保2年(1645年)11月8日に薨去。享年65。 細川幽斎・中院通勝・烏丸光広から古典や和歌を学び、後陽成院歌壇・後水尾院歌壇で活躍した他、連歌にも長じ、光悦流の書をよくした。智仁親王から後水尾院に古今伝授が相伝された際には、実顕もこれを同聴したという。なお、宮内庁書陵部には、実顕が仙洞・親王などに宛てた自筆の歌道消息が残されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿野実顕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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