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阿野家(あのけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流・滋野井庶流。 阿野の家名は草創期における武家との相続関係に由来しており、源義朝の七男で義経の同母兄である今若丸が駿河国駿東郡阿野荘(静岡県沼津市西部)を領し、その地名を苗字の地として阿野全成と称したことがもともとの始まりである。 == 概要 == 公家の阿野家は、藤原成親の四男にして滋野井実国の猶子である公佐を家祖とする。阿野全成の女が阿野荘の一部を相続して公佐に嫁した後、公佐および全成女の子孫が代々これをそのまま相続し、やがて「阿野」が一流の家名となった。 家業は神楽・有職故実。家紋は唐花。近衛家の家礼。江戸時代の家禄は478石。旧家。外様。明治維新後は子爵。 家祖公佐の官歴は不詳であるが、その子実直は宝治3年(1249年)公卿に列した。実直の子には公寛・公仲とがあり、家系もこの二流に分かれたが、近代まで続くのは後者である。公寛の子孫は季長以降、公卿に昇った者はおらず、実益が嫡家・滋野井家の遺跡を再興した。阿野家の嫡流となった公仲・公廉は不遇に終わるも、その子実廉は後醍醐天皇に仕えて公卿に昇り、妹の廉子は天皇の後宮に入って後村上天皇の生母となる。この縁から阿野家は代々南朝に仕えたが、却って家の分裂・弱体化を回避し、南北朝合一後も公家社会に留まることを可能にしたという。南朝では、季継が権大納言に、実為が後亀山天皇の信任を得て異例の内大臣に昇進した他、その子公為も権中納言に進んだか(北朝から叙任を受けた形跡もある)。実治は合一後の朝廷に仕えて権中納言となり、中流公家の家格を保持したが、その子公熙は応仁の乱で西軍に属し、その子季綱は室町将軍足利義稙の信頼を得るも参議のまま頓死する。これを継いだ季時も早世したために後嗣なく、ここに阿野家は中絶することとなった。 その約半世紀後、季時の孫実顕が阿野家を再興。実顕は慶長17年(1612年)公卿に列して正二位権大納言に進み、江戸時代の阿野家はこれを極位極官としたが、40代で没した者が多い関係で、実際に極位極官に達したのは公業・実藤・公緒・公縄の4代に留まる。明治維新後、公誠は参与に補任、その子実允は明治17年(1884年)子爵を授けられた。菩提所は松林院。 分家に山本家(羽林家・維新後 子爵)、北大路家(男爵)、玉松家(男爵)がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿野家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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