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阿野鉱二 : ミニ英和和英辞書
阿野鉱二[あの こうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
: [に]
  1. (num) two 

阿野鉱二 : ウィキペディア日本語版
阿野鉱二[あの こうじ]

阿野 鉱二(あの こうじ、1948年1月1日 - )は、大阪府堺市〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、15ページ〕出身の元プロ野球選手捕手)。右投右打。
== 来歴・人物 ==
浜寺中学時代に捕手になる。明星高等学校では真田重蔵監督の指導を受け、1年生の1963年夏の甲子園に控え捕手として出場。決勝で池永正明投手を擁する下関商を降し、全国制覇を経験〔する。この時の四番打者、正捕手は、中学の先輩である和田徹だった。2年生からレギュラー捕手になり、五番打者として1964年夏の甲子園に連続出場〔するが、1回戦で大府に敗れる。3年の夏は府予選準決勝で興國の谷博信投手立大日本熱学)らに抑えられ敗退した。高校同期に堀井和人中堅手がいる。
1966年4月に早稲田大学教育学部教育学科専修に進学。東京六大学リーグでは在学中に2度の優勝を経験した。入学当時の正捕手は1966年秋季ベストナインの長倉春生であったが、その壁を越え、2年生から出場機会が増える。3年生の時には同期の小坂敏彦投手とバッテリーを組み、1968年秋季リーグに優勝。自身も首位打者となりベストナインに選出された〔。リーグ通算57試合出場し184打数52安打、8本塁打、24打点、打率.283。1970年3月、早稲田大学教育学部教育学科専修卒業、学士(教育)(早稲田大学)。他の大学同期に谷沢健一外野手荒川尭遊撃手小田義人一塁手らがおり、自身も含め7人がプロ入りしている。
1969年のドラフト2位で指名され、翌年巨人入団。1970年にはジュニアオールスターゲームにも選出される。1971年には一軍で49試合に出場し、1974年にはイースタン・リーグで首位打者を獲得〔。衰えの見える森昌彦の後継を吉田孝司と争うが、1975年の巨人ベロビーチキャンプで腹膜炎を起こし、その後も一軍に定着できず1976年にオフに現役引退〔。
引退後は巨人バッテリー兼トレーニングコーチに就任、1985年よりトレーニングコーチ専任となり1991年退団。その後は東京都中央区にある建設業スチールエンジ株式会社取締役会長〔。
巨人時代、トレーニングコーチとしての手腕は非常に高く、「巨人軍のストレッチング」という本を出版するほどの研究家であり、トレーニングコーチの草分け的存在だった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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