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院近臣(いんのきんしん、院の近臣)とは、院政を行う治天の君の側近及びその集団の事を指す。摂関期には諸大夫と呼ばれる下級貴族だったが、院政期に乳母の縁故や荘園寄進・財力奉仕などを通して急速に台頭する。院に従属・密着した存在であり、院の権勢を背景に摂関家や有力寺社と対立した。その大半は大国の受領だったが、一部に有能な実務官僚も含まれる。院近臣間の権力闘争は平治の乱の一因となり、院権力の不安定な後白河院政期には、たびたび解官・追放の対象となった。 == 概要 == 応徳3年(1086年)、白河上皇は堀河天皇に譲位して院政を開始するが、対抗する勢力として異母弟・輔仁親王や摂関家などの伝統的貴族勢力が存在し、田堵農民層を神人・寄人に組織して巨大化した寺社勢力の圧力も熾烈だった。院領・直属武力もほとんどなかったため、当初は専制的権力を行使することはできなかった。白河の初期の側近として知られる大江匡房・藤原通俊(小野宮流)・源経信(宇多源氏)・藤原実政(日野家)・源俊明(醍醐源氏)は、摂関期以来の上流貴族・学者であり厳密な意味で院近臣とは言えない。 嘉承2年(1107年)、堀河天皇が崩御してわずか5歳の鳥羽天皇が即位すると、白河は自らの手足である院近臣や親衛隊ともいえる北面武士を受領・太政官・兵衛府・衛門府などの公的機関に強引に送り込み、諸勢力を抑えて国政の主導権を確保していった。源俊明が永久2年(1114年)に薨去すると白河を諫止する者はいなくなり、保安元年(1120年)には関白・藤原忠実が内覧を停止され失脚に追い込まれた。 摂関家出身の慈円は『愚管抄』において、「白河上皇が院政を始めてから後は、政治は上皇の御心のままになり、執政の臣である摂関が廷臣の先頭に立って政治を行う事はなくなった」〔「白河院ノ後、ヒシト太上天皇ノ御心ノホカニ、臣下トイフモノノセンニタツ事ノナクテ」(『愚管抄』)〕「世を治める君と摂関が心を一つにして決して対立することがあってはならないのに、別に院近臣という者が現れて院と摂関の間に割り込み、その仲を悪くした」〔「世ヲシロシメス君ト摂籙トヒシト一ツ御心ニテ、チガフコトノ返返侍ルマジキヲ、別ニ院ノ近臣ト云物ノ男女ニツケテイデキヌレバ、ソレガ中ニイテイカニモコノ王臣ノ御中ヲアシク申ナリ」(『愚管抄』)〕と、摂関の無力化と院近臣の跳梁を嘆いている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「院近臣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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