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院司(いんし、いんのつかさ)は、日本の中世・古代において、上皇や女院の直属機関として設置された院庁の職員。中流貴族が任命されることが多く、他の官職と兼任する兼官だった。平安時代後期に院政が開始すると、上皇の政務機関である院庁の院司は、政治の枢要を担う重要職とされた。 本項では、院政の院司について詳述する。 == 院政の院司 == 院司は、嵯峨上皇の835年(承和2年)、院別当安倍安仁とあるのが初見である。当初、院庁は上皇の家政機関として設置され、所務・雑務が主要な用務であった。長官は別当(べっとう)、次官を判官代(ほうがんだい)、主典を主典代(さかんだい)といった。 1086年(応徳3年)前後に白河上皇が院政を開始すると、院庁を構成する院司の役割は非常に重要なものとなった。院司は、治天の君(皇室の家長)の命を受け、院庁下文・院庁牒・院宣を発給し、治天の政治意思を具現化するため、実務を遂行していった。そのため、院司には、蔵人・弁官・受領などを歴任した実務官僚が充てられることが多かった。彼らは、摂関家のような上級貴族ではなかったが、実務能力をもって登用され、政治に大きな影響を及ぼした。 院司や他の中流貴族の中には、治天の側近となり、権勢をふるう者も現れ、これを院近臣という。院司や院の近臣は、治天の権力を背景として、様々な利益を得ていたが、例えば知行国が給与されることもしばしば見られた。保元の乱以降の平清盛の急速な台頭も、後白河上皇の院司だったことが、主な理由の一つである。 白河~後鳥羽までの院政最盛期が経過した後も、実質的に院政が消滅する室町時代前期まで(一部の期間を除いて)、院司は政治の枢要を担う重要な役割を果たしていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「院司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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