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(n) government by cloistered emperors =========================== ・ 院政 : [いんせい] (n) government by cloistered emperors ・ 政 : [せい, まつりごと] 【名詞】 1. rule 2. government
院政(いんせい)は、在位する天皇の直系尊属である太上天皇(上皇)が、天皇に代わって政務を直接行う形態の政治である。上皇は「院」と呼ばれたので、院政という。「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」〔『日本外史』巻之一 源氏前記 平氏(平治の乱後):「この時に当たり、政、(後白河)上皇に在り。藤原経宗、藤原惟方、帝(二条天皇)に勧めて政を親らせしむ。両宮交々(こもごも)悪(にく)む」。〕として「院政」〔『日本外史』巻之一 源氏前記 平氏「平氏論賛」:「是に由りて之を観れば、平宗を延いて以て相門に抗するは、院政・廟論、相伝承する所、其れ猶を寛平の菅氏を擢任するが如きか」(大意: これらの歴史的事例から察するに、平氏の一族の力を借りて藤原氏に対向するのは、天皇家において代々相伝されたことであり、寛平年間に菅原道真を抜擢任用したようなものだろうか)〕と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。 特に白河上皇の1086年から平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 == 概要 == === 前史 === 本来、皇位は所謂終身制となっており、皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われていた。皇極天皇以降、持統天皇・元正天皇・聖武天皇など、皇位の生前譲位が行われるようになった。当時は皇位継承が安定していなかったため(大兄制)、譲位という意思表示によって意中の皇子に皇位継承させるためにとられた方法と考えられている。皇極・持統・元正は女帝であり、皇位継承者としての成人した男性皇族が現れるまでの中継ぎに過ぎなかったという事情があった。聖武天皇に関しては、国家プロジェクトであった東大寺建立に専念するためという事情もあった。これらが後年の院政の萌芽となる。 平安時代に入っても嵯峨天皇や宇多天皇や、円融天皇などにも、生前譲位が見られる(後述)。日本の律令下では上皇は天皇と同等の権限を持つとされていたため、こうしたやや変則的な政体ですら制度の枠内で可能であった。これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与する事があった。だが、当時はまだこの状態を常に維持するための政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分であり、平安時代中期には幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮するための若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかったために、父系によるこの仕組みは衰退していく〔奈良時代には聖武天皇(紫香楽宮)と元正上皇(難波宮)のもとで短期間ながら宮廷が分裂し、平安時代には天皇の内侍宣を掌る尚侍藤原薬子が平城上皇の復位を画策したために、嵯峨天皇が命令系統を一時的に喪失する危機にさらされた薬子の変などの教訓から蔵人所の設置など天皇権力の強化が行われた影響もある(筧、2002年)。〕。代わりに母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治が隆盛していくことになる。 だが、治暦4年(1068年)の後三条天皇の即位はその状況に大きな変化をもたらした。平安時代を通じて皇位継承の安定が大きな政治課題とされており、皇統を一条天皇系へ統一するという流れの中で、後三条天皇が即位することとなった。後三条天皇は、宇多天皇以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない170年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた摂関政治がここに揺らぎ始めることとなる。 後三条天皇以前の天皇の多くも即位した直後に、皇権の確立と律令の復興を企図して「新政」と称した一連の政策を企画実行していたが、後三条天皇は外戚に摂関家を持たない強みも背景として、延久の荘園整理令(1069年)などより積極的な政策展開を行った。延久4年(1072年)に後三条天皇は第一皇子貞仁親王(白河天皇)へ生前譲位したが、その直後に病没してしまう。このとき、後三条天皇は院政を開始する意図を持っていたとする見解が慈円により主張されて(『愚管抄』)以来、北畠親房(『神皇正統記』)、新井白石(『読史余論』)、黒板勝美、三浦周行などにより主張されていたが、和田英松が、災害異変、後三条天皇の病気、実仁親王の立東宮の3点が譲位の理由であり院政開始は企図されていなかったと主張し、平泉澄が病気のみに限定するなど異論が出された。近年では吉村茂樹が、当時の災害異変が突出していないこと、後三条天皇の病気(糖尿病と推定されている)が重篤化したのが退位後であることを理由として、摂関家を外戚に持たない実仁親王に皇位を継承させることによる皇権の拡大を意図し、摂関政治への回帰を阻止したものであって院政の意図はなかったと主張し、通説化している。しかしながら美川圭のように、院政の当初の目的を皇位決定権の掌握と見て、皇権の拡大を意図したこと自体を重要視する意見も出ている。 その一方で、近年では宇多天皇が醍醐天皇に譲位して法皇となった後に天皇の病気に伴って実質上の院政を行っていた事が明らかになった事や、円融天皇が退位後に息子の一条天皇が皇位を継ぐと政務を見ようとしたために外祖父である摂政藤原兼家と対立していたという説もあり、院政の嚆矢を後三条天皇よりも以前に見る説が有力となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「院政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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