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八甲山 純司(はっこうざん じゅんじ、1884年8月3日-1951年1月10日)は、青森県東津軽郡横内村(※現役当時、現・同県青森市)出身で、1910年代から1920年代にかけて活躍した大相撲力士である。本名は、清藤 純司(せいどう じゅんじ)。8代高島。 == 来歴 == 1884年8月3日に、当時の青森県東津軽郡横内村で生まれる。子供の頃から怪力で、19歳で土地相撲での活躍を見た若松から勧誘されたが、自身は長男だったために両親から反対された。それでも3年後に角界入りを決意し、兵役終了後に家出して若松部屋へ入門した。1908年1月場所において幕下付出で初土俵を踏むと順調に出世していき、1910年6月場所で新十両昇進、その十両も1場所で通過して1911年2月場所では新入幕を果たすというスピード出世だった。 身長175cm・体重94kgと当時の力士としては標準的な体格ながら筋肉質で、特に守りに入った際の腰の重さには定評があった。当時、「梅常陸時代」として明治時代後期の相撲黄金時代を築いた梅ヶ谷藤太郎(2代)でも八甲山を土俵の外に押し出せず、2度の引分となっている。人気幕内力士であるゆえに三役昇進を期待されたが、怪力任せの強引な取り口が多いのに加えて「オレは稽古しなくても、幕内は十分務まるのだ」と豪語していたにも関わらず、酒豪が災いして三役昇進は果たせず、幕内在位20場所を全て平幕で過ごした。1920年1月場所では幕内で10戦全敗を記録したほか、現役引退直前は東十両12枚目まで陥落しており、力の衰えは誰が見ても明らかだった。 1922年1月場所を最後に引退し、年寄・高嶋を襲名して高嶋部屋を創設した。戦中から戦後直後にかけて、吉葉山潤之輔・三根山隆司・輝昇勝彦と、後に戦後の大相撲界を背負って立つ名力士を多数育成した。 1951年1月10日に死去、。没後、高嶋部屋は元小結・巴潟の安治川親方が名跡変更して継承したほか、吉葉山は横綱へ、三根山は大関へ昇進し、いずれも一度だけだが賜杯を手にしている。 現在、故郷・青森市に、八甲山の顕彰碑が存在する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八甲山純司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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