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陳 中孚(ちん ちゅうふ、1882年 - 1958年5月24日)は、中華民国の政治家。早くから革命派として活動し、中国国民党では西山会議派の一員と目された。後に汪兆銘政権に参加している。字は奇曽。 == 事跡 == === 革命派から反共右派へ === 清末に日本に留学して法政大学を卒業し、帰国後は商震らと東三省で革命派の秘密活動に従事した。辛亥革命が勃発すると、東三省で革命派の連絡員を務めている〔徐主編(2007)、1388頁。〕〔劉主編(2005)、1322頁。〕。 中華民国成立後の第二革命(二次革命)の失敗で日本に亡命し、後に中華革命党総務部第二科科長に任ぜられた。1915年に帰国し、孫文(孫中山)らの指示で山東省にて党務・軍務に従事する。同年末に護国戦争が勃発すると、東北革命軍総司令部参謀兼運糧局局長となり、後に総司令代理も務めた。1917年(民国6年)からの護法運動にも参加し、大元帥府軍事委員会委員に任ぜられている〔〔。 国民政府成立後は、陳中孚は中国国民党の中でも反共右派の西山会議派の一員、さらに元老許崇智の側近と目された。1926年(民国15年)、広州国民政府委員会秘書となる。翌年10月、安徽省政府財政庁庁長に任ぜられ、12月には同省国民政府財政特派員に転じた。1928年(民国17年)、青島市接収専員に任ぜられ、その翌年7月には江蘇省政府委員に移っている。同年中に青島市長に任ぜられたが、実際には就任しなかった〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳中孚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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