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陳伯固(ちん はくこ、555年 - 582年)は、南朝陳の皇族。文帝陳蒨の五男。字は牢之。 == 経歴 == 陳蒨と潘容華のあいだの子として生まれた。565年(天嘉6年)、新安郡王に封じられた。566年(天康元年)、廃帝が即位すると、使持節・都督南琅邪彭城東海三郡諸軍事・雲麾将軍・彭城琅邪二郡太守となった。567年(光大元年)、入朝して丹陽尹となった。569年(太建元年)、丹陽尹のまま智武将軍に進んだ。任期を終えると、翊右将軍に進んだ。まもなく使持節・都督呉興諸軍事・平東将軍・呉興郡太守に任じられた。572年(太建4年)、入朝して侍中・翊前将軍となった。574年(太建6年)、安前将軍・中領軍に転じた。575年(太建7年)、使持節・散騎常侍・都督南徐南豫南北兗四州諸軍事・鎮北将軍・南徐州刺史として出向した。飲酒と狩猟を好み、州にあっても政事を顧みず、宣帝に譴責されることが多かった。 578年(太建10年)、入朝して侍中・鎮右将軍の位を受け、まもなく護軍将軍となった。この年のうちに国子祭酒となり、左驍騎将軍を兼ねた。580年(太建12年)、宗正卿を兼ねた。581年(太建13年)、使持節・都督揚南徐東揚南豫四州諸軍事・揚州刺史となった。582年(太建14年)1月、陳叔陵とともに反乱を起こして敗死し、遺体は東昌館門にさらされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳伯固」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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