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陳 俊(ちん しゅん、? - 47年)は、後漢の武将。字は子昭(ししょう)、南陽西鄂の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第19位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 ==事跡== 若くして南陽郡の吏となる。更始1年(23年)、劉玄が即位した際、宗室の太常将軍・劉嘉付きの長史に任じた。劉秀が河北を攻略するに及び、劉嘉の推薦によって、陳俊は曲陽の県令を辞し、劉秀の下で安集掾となった。劉秀に従って農民反乱集団の銅馬・五校を河北に撃って功あり、強弩将軍を拝命した。 建武1年(25年)、劉秀即位の際に封侯された。 建武2年(26年)、河北・河南の農民反乱集団を討ち、新處侯に封ぜられた。さらに強弩大将軍を拝命し、河南・河内の農民反乱集団を打ち破った。 建武4年(28年)、河南・山東の農民反乱集団を討った。当時、泰山周辺の諸豪が劉永の配下・張歩と連合していた。劉秀は陳俊を泰山太守〔『後漢書』では撰者范曄が父范泰の諱を避け、泰山を太山と記している。〕に任じ、大将軍の兼行とした。陳俊は張歩軍を破って泰山周辺を平定した。 建武5年(29年)、建威大将軍・耿弇とともにさらに張歩軍を破り、張歩を投降させた。琅邪郡がなお平定されていなかったため、陳俊は将軍職兼務のままで琅邪太守に移された。東海に割拠する董憲らを討ち平らげた。 建武8年(32年)、張歩が叛き、洛陽から故郷の琅邪に奔走し、船に乗って逃げんとした。陳俊はこれを討って張歩を斬った。劉秀はこの功を称え、青州・徐州の平定を陳俊に一任した。陳俊は貧窮する民を慰撫し、義挙あればこれを表彰し、軍吏が郡県の行政権に介入しないよう抑制した。陳俊はしばしば上書して隴西の隗囂・蜀の公孫述を討ちたいと願い出たが、劉秀は「山東の平定は大将軍の功績である。沿海の盗賊は国家の憂いとなっている。しばらく鎮撫に勤めよ」と詔して陳俊を山東に留めた。 建武13年(37年)、食邑を加増され、祝阿侯に封ぜられた。 建武14年(38年)、洛陽に召されて朝請を奉じた。 建武23年(47年)、逝去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳俊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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