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陳 友仁(ちん ゆうじん)は中華民国の政治家・ジャーナリスト。中国国民党の要人で党内左派と目される。国民政府で外交部長をつとめ、「革命外交」を展開したことでも知られる。祖籍は広東省広州府香山県。英語名はEugene Ch'en(ユージン・チェン)。 == 事跡 == === 革命外交の展開 === イギリスで教育を受け、後に弁護士資格を取得してイギリス本土や西インド諸島で弁護士業務を展開した。1912年(民国元年)に帰国し、北京政府交通部法律顧問となる。翌年、北京で中英両文版の『京報』を刊行した。1917年(民国6年)、日本の中国侵略の態度を批判する論文を発表したため、国務総理段祺瑞の忌むところとなる。『京報』は発禁、閉鎖され、陳自身も逮捕、拘禁されてしまった。 釈放後、陳友仁は孫文(孫中山)らの護法軍政府(南方政府)に参加する。1919年(民国8年)、護法軍政府代表団の一員としてパリ講和会議に参加した。翌年、護法軍政府郵務監督となり、さらに国際連盟代表団代表にもなった。1923年(民国12年)3月、大本営秘書となり、9月、大本営航空局局長に起用されている。後には孫文の英文秘書となり、1925年(民国14年)1月、中国国民党中央政治委員会委員に選出された。 1926年(民国15年)1月、国民党第2期中央執行委員に選出され、5月、広州国民政府外交部部長代理に任命された。翌年1月、漢口イギリス租界臨時管理委員会委員長を兼任し、2月に武漢国民政府で外交委員会主席に任ぜられた(翌月、外交部部長となる)。4月、対日外交委員会委員長も兼任した。この間、陳友仁は漢口や九江のイギリス租界回収に成功し、「革命外交」の体現者として評された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳友仁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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