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陳啓天 : ウィキペディア日本語版
陳啓天[ちん けいてん]

陳 啓天(ちん けいてん)は中華民国台湾)の政治家・学者。中国青年党の指導者の1人として知られる。名を頻繁に変えており、幼名は翊林、譜名は声翊、小学・中学在学時の名は国権辛亥革命時は春森、そして大学在学時に名を啓天修平とした。筆名は明志致遠
== 事績 ==

=== 少年中国学会への参加 ===
製油業を経営する地主の子として生まれる。当初は旧学を学んでいたが、1905年光緒34年)より新式教育を受け始め、武昌湖北高等農務学堂附属高等小学に入学した。翌年、新設された黄陂県道明小学に転入し、1910年宣統2年)春に湖北高等農務学堂附属中学に進学している。翌年に辛亥革命が勃発すると、陳啓天も北伐軍第2軍憲兵隊の一員として革命派に参加した。
1912年民国元年)秋、陳啓天は私立武昌中華大学(以下、単に「中華大学」と表記)で政治経済特科に入学し、このときに劉文卿から陽明学を学んだ。1915年(民国4年)夏に卒業し、1917年(民国6年)からは中華大学中学部で教師となっている。1919年(民国8年)秋、陳は惲代英余家菊らと共に少年中国学会に加入し、1923年(民国12年)から翌年まで同会執行部主任を務めた。少年中国学会で五四運動後に左右対立が起きると、陳は国家主義・反マルクス主義を標榜する右派に立ち、鄧中夏らの左派と激しい論争を展開している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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