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陳啓礼 : ウィキペディア日本語版
陳啓礼[ちん けいれい]

陳啓礼(ちん けいれい)は、台湾黒社会の構成員。竹聯幇初代幇主(幇主=台湾暴力団の組長、会長の意味)。
== 略歴 ==
四川省広安市生まれ。1949年、両親に従って7歳で台湾に移住。当時の台湾は外省人本省人が対立しており、陳啓礼は学校で何度もいじめられた。そのため立ち上がって本省人系の学生に対抗したことから、陳啓礼の名が知られるようになった。このことが、以後ヤクザとなるきっかけになった。
1952年、陳啓礼は中和一帶の暴力団中和幇に参加して、周新徳周榕の大老の引率の下でヤクザとして生活を始める。
1956年頃、幇主‧孫徳培が殺人罪を犯して入獄後、中和幇は内部分裂を起こし、中和幇の勢力は急激に衰退する。その際、大老趙寧が会議を開いて竹林聯盟(略称竹聯幇)を結成した。5つの分枝が設立され、陳啓礼は「鴨」の構成員に属することとなった。鴨の親分は周榕であった。
1962年、対立していた別の黒社会組織・四海幇が当局の取り締まりにより勢力を失った。その機会に乗じて陳啓礼は竹、葉、青などの竹聯幇構成員を連れて大規模な報復行動を展開し、四海幇の地盤を奪った。これにより、陳啓礼の名は裏社会に知れ渡り、竹聯幇の中でも大きな権威を得た。
1968年4月、竹聯幇は陽明山で会議を開いて、勢力拡大に伴う組織の再編を行っている。陳啓礼は総堂主(相似総長の職)を担当する、竹聯幇の大親分になる。しかし、まだ竹聯幇はいくつかの勢力に分かれており、組織が統一されたわけではなかった。この時に陳啓礼は初代目幇主となったと言われるが、実質的には1976年以降と考えられる。
1970年、構成員の陳仁が組織の金を横領し逃亡、更に警察への保護を求めるという事件が起こった。陳仁は竹聯幇構成員によって殺害された。陳啓礼は殺害を舞台裏で指揮したという疑いにより、1972年に逮捕されて入獄する。
1976年、出獄した陳啓礼は、カタギとなり、ヤクザとの関係を断とうとする。しかし周囲の頼みを拒絶出来ず、再び表に立って竹聯幇を統合する。
1984年10月15日、陳啓礼、呉敦(総護法)、董桂森(忠堂堂主)は米国カリフォルニア州サンフランシスコで作家劉宜良(江南)を暗殺した。劉宜良は即死だった。米国FBIがすぐさま捜査を開始し、犯人が台湾暴力団竹聯幇の陳啓礼、呉敦、董桂森であることをつかんだ。米国中華民国政府に陳啓礼などの身柄を引き渡すことを要求した。マスコミには、すでに陳啓礼の万一防ぐならのために制作する1巻の録音テープを掌握したことを漏らすことがで、中華民国政府の情報統治の人員がこの事件に介入することを実証する。
陳啓礼と呉敦は台湾に帰国後、政府に「一清特別案件」の名義で逮捕され、江南事件台北で3審査決定事件、陳啓礼、呉敦汪希苓は、殺人罪により無期懲役の判決を受け、公民権の終身剝奪を言い渡された。董桂森は海外に逃亡したが、ニューヨークヘロインの取引にかかわったとして、20年の監禁を言い渡され、最後に米国連邦刑務所の一回の武器を持っての戦いで死ぬ。
1991年、陳啓礼は刑期満了により釈放された後に竹聯幇に戻る。それから呉敦、当時陳啓礼は殺人事件の現場にない。陳啓礼は元気で学問があり上品で、組織犯罪防止条例で指名手配され、1996年カンボジアプノンペン市に逃亡した後も、訪問者は絶えないという。2007年10月4日膵臓癌のため香港の病院で死去した。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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