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曹 植(そう ち)は、中国後漢末から三国時代の人物で、魏の皇族。陳王に封じられ、諡は思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。才高八斗(八斗の才)・七歩の才の語源。建安文学の三曹の一人。 == 生涯 == 沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の人。曹操の五男として生まれる。生母の卞氏は倡家(歌姫)の出身であるが、『世説新語』賢媛篇に名を列ねるほどの賢婦であった。同母兄に文帝曹丕・任城威王曹彰。同母弟に蕭懐王曹熊。妃は崔氏(崔琰の姪(兄の娘))〔上掲『曹植』10頁。〕。子は曹苗(早世)・曹志。他に2人の娘がいた。 異母兄の曹昂と曹鑠が早世すると、建安2年(197年)頃〔上掲『曹植』の年譜では建安元年(196年)頃(204頁)。〕に卞氏が正室に上げられ、曹植は曹操の正嫡の三男となる。幼い頃より詩など数十万言を諳んじ、自身も詩人であった曹操に寵愛された。建安16年(211年)、平原侯(食邑5000戸)に封じられ、214年、臨葘侯(同)に転封される。 曹植は礼法に拘泥せず、華美を嫌い、酒をこよなく愛する、闊達さと奔放さを合わせ持った、天才肌の貴公子であった。ただし少々それが行き過ぎてしまうこともあり、天子の専用通路を勝手に通ってしまい、曹操を激怒させてしまったこともある(このことは相当な禍根となったようで、後々まで曹操はそれを嘆いた)。詩人としてのみならず、実際には父の遠征に従って14歳から従軍し、烏桓遠征・潼関の戦い〔この時留守役として鄴に駐留した曹丕が「感離賦」を送り、弟へ別れを惜しんでいる。一方の曹植も従軍中に「離思賦」を作り、曹丕への思慕を表明している。〕・張魯征討など数多くの戦役に従軍しており、兄たちと同じく戦場で青年時代を送っている。戦場の空気に馴染んでいたとみられる。 この頃より詩・賦の才能がさらに高まり、さらに曹操の寵愛は深くなる。同時に、この頃から曹丕との後継争いが勃発する。彼らよりもそれぞれの側近たちの権力闘争といった様相が強かったが、建安22年(217年)に正式に曹丕が太子に指名されると、以降は曹植と側近者たちは厳しく迫害を受けることになった。 建安25年(220年)に曹操が没すると側近が次々と誅殺され、黄初2年(221年)には安郷侯に転封、同年の内に鄄城侯に再転封、黄初3年(223年)にはさらに雍丘王(食邑2500戸)、以後浚儀王・再び雍丘王・東阿王・陳王(食邑3500戸)と、死去まで各地を転々とさせられた。 この間、皇族として捨扶持を得るだけに飽き足らず、文帝曹丕と明帝曹叡に対し、幾度も政治的登用を訴える哀切な文を奉っている。特に明帝の治世になると、親族間の交流を復することを訴える文章が増える。太和4年(230年)に母卞氏が没し、最大の庇護者を失った。その後も鬱々とした日々を送り、太和6年(232年)11月28日、「常に汲汲として歓びなく、遂に病を発して」41歳で死去。子の曹志が後を継いだ。 曹植は中国を代表する文学者として名高いが、曹植自身は詩文によって評価されることをむしろ軽んじていた節がある。側近の楊修に送った手紙では「私は詩文で名を残すことが立派だとは思えない。揚雄もそう言っているではないか。男子たるものは、戦に随って武勲を挙げ、民衆を慈しんで善政を敷き、社稷に尽くしてこそ本望というものだ」と語っており、兄の文帝曹丕が「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」(『典論』論文より)と主張しているのとは、好対照である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「曹植」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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