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陳摶(ちん たん)(872年 - 989年〔『宋史』による〕)は五代十国から北宋にかけての道士。しばしば仙人と見なされる。 字は図南。自ら扶揺子〔『宋史』による。『荘子』逍遥遊の「摶扶揺而上者九万里」(扶揺はつむじ風、摶は羽ばたく)から取ったもの。なお字の「図南」も『荘子』の同じエピソードに出現する語〕を号したが、北宋の太宗が希夷先生の号を贈ったため、陳希夷(ちん きい)とも呼ばれる。睡仙のあだ名もある。 紫微斗数、河洛理数、麻衣相法といった占術の創始者に仮託されている。 == 略歴 == 『宋史』巻457・隠逸列伝上に陳摶の略歴が見られるほか、さまざまな書物に言及があるが、信頼できる記述は少ない。 『宋史』によると、陳摶は亳州真源(今の河南省鹿邑県)の出身であったという。ただしこの地は老子の出身地とされる道教の聖地であり、付会かもしれない。『歴世真仙体道通鑑』巻47には、「普州崇龕(今の重慶市潼南区)の人ともいうが、これは後に隠棲した所だろう」と言っている。 書物は一度読んだだけで暗記でき、後唐の長興年間に進士の試験を受けたが、落第したため、その後は官途を目ざさず武当山に隠棲し、のちに華山の雲台観、および少華山の石室に移った。食事は日に酒を数杯飲むだけであった。また一度寝ると百日以上起きなかった(『東軒筆録』によると三年間起きなかったという〔魏泰『東軒筆録』巻之一「或一睡三年」〕)。後周の世宗が宮中に陳摶を召し、諫議大夫に取りたてようとしたが、陳摶は固辞して受けなかった。「太華希夷志」(元の張輅による陳摶の伝記。道蔵に収める)によると、世宗は陳摶に白雲先生の号を与えた。 北宋の太宗は陳摶に学ぼうとしたが、自分は皇帝を教えるような術は持っていないといって断った。太宗は陳摶に「希夷先生」の号を与え、多くの贈り物をした。 端拱元年(988年)に、弟子に命じて華山の張超谷に石室を造らせた。翌年7月に石室が完成すると、陳摶は「自分は今月22日に蓮花峰の下の張超谷で死ぬ」という意味の上表文をしたため、そのとおりに死んだ。「太華希夷志」も同じ話を載せるが、享年を118歳とする。 陳摶は『易』を好み、『指玄篇』81章を著した。ほかに「三峰寓言」「高陽集」「釣潭集」および詩六百余首を残した。他人が思っていることを言い当てたり、遠くの場所で起きた出来事を知ることができたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳摶」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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