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陳朝 : ウィキペディア日本語版
陳朝[ちゃんちょう]

陳朝(チャンちょう、ちんちょう、, )は、現在のベトナム北部を1225年から1400年まで支配した王朝。国号は大越。首都は昇龍(タンロン、現在のハノイ)。
== 歴史 ==

=== 王朝成立まで ===
王族である陳氏の祖先は福建、もしくは桂林からの移住民であり、現在のナムディン省タイビン省一帯を根拠地とし、一族は漁業と水運業で生計を立てていた〔桃木「「ベトナム史」の確立」『東南アジア古代国家の成立と展開』、171頁〕。また、漁業と水運業の傍らで海賊業を行っていた伝承も存在する〔桜井「亜熱帯のなかの中国文明」『東南アジア史1 大陸部』、178頁〕。
李朝支配下の北ベトナムでは12世紀末より政権の腐敗が甚だしく、天災による飢饉によって民衆は窮乏し、治安は悪化していた〔ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、185頁〕。乂安(ゲアン)、清化(タインホア)、寧平(ニンビン)では民衆の反乱が起こり、各地の豪族の中にも政府に反逆する者が現れる〔ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、186頁〕。1208年に乂安の反乱を鎮圧するために招集した軍隊が昇龍で反乱を起こすと、皇帝・高宗ら李朝の王族は昇龍から放逐され〔、李朝は反乱の鎮圧に外戚である陳氏の力を借りることになる。1209年、陳氏の長であった陳李は李朝の王族たちを保護するが翌年盗賊に討たれ、代わって次男の陳嗣慶(チャン・トウ・カイン)〔桃木『中世大越国家の成立と変容』、210,272頁〕を中心とする陳氏は高宗を擁して昇龍に入城し〔、以降宮廷で陳氏の勢力が台頭してゆくこととなる。
乱の鎮圧中に陳李によって擁立された皇子・李(恵宗)が即位すると、陳李の娘・仲女を恵宗の妻に、恵宗の母である譚氏を太后として、陳氏と譚太后の共同統治が行われる〔桃木『中世大越国家の成立と変容』、210頁〕。やがて陳氏と譚太后の間に対立が起きるが、陳氏は恵宗の支持を得て、譚太后一派との政争に勝利し、宮廷内での地位を確立した〔。内乱の鎮圧にあたって陳嗣慶は兄〔の陳承(チャン・トウア)、従兄弟の陳守度(チャン・トゥー・ド)ら一族と連携し〔桃木「「ベトナム史」の確立」『東南アジア古代国家の成立と展開』、172頁〕、陳嗣慶が没した後は殿前指揮使の高位に就いていた陳守度が陳氏の中心人物となった。
1224年に陳守度は7歳の王女である仏金(パット・キム、昭皇、昭聖皇后)を皇帝に擁立し、仏金の父である恵宗を退位させ、寺院に隠棲させた〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、79頁〕。陳守度は8歳の甥・陳(チャン・カイン、後の太宗)を昭皇の遊び相手とした後、陳と昭皇を結婚させる〔。1225年〔ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、186頁 では、王朝の成立を「乙酉の冬、12月(1226年初め)」としている。〕に昭皇から陳への譲位が行われ、陳を皇帝、陳の父である陳承を上皇とする陳氏の王朝が成立する〔桃木「「ベトナム史」の確立」『東南アジア古代国家の成立と展開』、172-173頁〕。陳朝成立後に恵宗は隠棲先の寺で自害し、陳守度は李朝再興の芽を摘むために恵宗の葬儀に集まった李朝の宗族を殺害するとともに〔酒井「陳朝」『アジア歴史事典』6巻収録 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、79頁〕、李朝の王女たちを紅河デルタ周辺の部族勢力に嫁がせ、彼らとの修好を図った〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、165-166頁〕。
太宗の治世の初期では陳守度が皇帝を輔弼して王朝の基礎を固め、李朝末期より発生していた反乱も鎮圧された〔酒井「陳朝」『アジア歴史事典』6巻収録〕。1237年に太宗は陳守度の進言によって、子の無い昭聖皇后に代えて、兄の陳柳の妻である順天を妊娠中にもかかわらず奪って妻とした〔桃木「「ベトナム史」の確立」『東南アジア古代国家の成立と展開』、174頁〕〔桃木『中世大越国家の成立と変容』、276頁〕。妻を奪われた陳柳は反乱を起こし、一時は太宗が安子山に隠遁する大事に至る。結局騒動は陳守度によって収拾され、太宗と陳守度との抗争に敗れた陳柳は安生王として紅河デルタの東端(現在のクアンニン省)に封じられた。太宗の親政が始まった1240年代より官、軍、法の各種制度の制定が実施され〔、1242年に国内を12の路に分けての行政区画と戸籍の整備が行われた〔桃木「「ベトナム史」の確立」『東南アジア古代国家の成立と展開』、180頁〕。1248年には治水に携わる新たな官職として河堤使が設置され、総延長は200キロメートル〔桜井「亜熱帯のなかの中国文明」『東南アジア史1 大陸部』、179頁〕にも及ぶ「水源から海に至る」と言われた鼎耳防と呼ばれる大堤防の建設令が出された〔桃木「「ベトナム史」の確立」『東南アジア古代国家の成立と展開』、179頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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