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陳樹人[ちん じゅじん]
陳 樹人(ちん じゅじん)は中華民国の政治家・画家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党では汪兆銘(汪精衛)派の一員と目される。また、嶺南画派(19世紀末の広東省に勃興した中国伝統絵画の一派)の画家としても著名で、様々な作品を残している。祖籍は広東省広州府番禺県。 == 事績 ==
=== 海外での活動、帰国 === 17歳の時に、嶺南画派の居廉(居古泉)に師事する。その後、香港『広東日報』などの各紙で論説を担当した。1905年(光緒31年)に中国同盟会に加入し、まもなく日本へ留学している。日本では、京都市立美術工芸学校に入学し、在校中は山本春挙から日本画を学んだ。 1912年(民国元年)、学業を修了して帰国し、広東優級師範学校や広東高等学校で国画の教鞭をとっている。1913年(民国2年)、第二革命(二次革命)の失敗により、日本へ再度亡命し、立教大学文学科で学ぶ。卒業して文学士の学位を取得したほか、横浜華僑学校で教鞭をとり、『民国雑誌』の編集にも参加した。1916年、カナダに渡り、後に中国国民党ビクトリア支部総幹事となっている。 1922年(民国11年)に帰国し、国民党総務部副部長となる。翌年、党務部副部長に移り、3月には広東省政府民政庁庁長・政務庁庁長に就任、さらに広東省長を一時代理し、党工人部長にもなった。5月、大本営内政部総務庁庁長となり、12月には内政部僑務局局長も兼任している。1925年(民国14年)9月、広州国民政府秘書長となり、翌年1月には、党第2期中央執行委員候補に選出された。同年11月には広東省政府委員兼民政庁庁長となる。党においては、汪兆銘ら武漢国民政府を支持する左派人士と目された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳樹人」の詳細全文を読む
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