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陳 済棠(ちん さいとう)は、中華民国の軍人。国民政府(国民革命軍)に属し、民国時代に広東省を統治した西南派の一員である。日中戦争(抗日戦争)勃発直前まで、蒋介石と対立していた。字は伯南。 == 事跡 == === 広東軍での台頭 === 農民の家庭に生まれる。1907年(光緒33年)、広東陸軍小学に入学した。1908年(光緒34年)春、教官の鄧鏗の紹介で中国同盟会に加入した。1912年(民国元年)、広東陸軍速成学校に入学し、翌年に卒業した。 1915年(民国4年)12月からの護国戦争(第三革命)以降、広東軍において軍歴を重ねる。1923年(民国12年)、劉震寰率いる滇桂軍の第2旅旅長に昇進した。同年7月、李済深が西江善後督弁となると、陳済棠は督弁公署参謀長を兼任し、中国国民党に味方する新桂系李宗仁らを支援した。 1925年(民国14年)7月、広州に国民政府が成立すると、陳済棠は第11師師長に昇進する。1926年(民国15年)には、欽廉警備司令を兼任する。北伐時には後方を固めるなど、広東省と海南島の平定に尽力した。また、陳は反共姿勢が強く、1927年(民国16年)に一時ソ連に視察に赴いたものの、帰国後は蒋介石に対してより強固に反共政策の推進を進言している。 その後も、陳済棠は蒋介石を支持して戦歴を重ねた。1929年(民国18年)3月、陳の上司にあたる李済深が蒋との対立の末に軟禁下に置かれると、陳はこれを機に蒋にさらに接近する。陳は討逆軍第8路軍総司令に任命されて広東の軍権を掌握した。1930年(民国19年)の中原大戦でも、李宗仁らの広西軍の背後を衝いて、蒋軍の勝利に貢献した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳済棠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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