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陳炯明[ちん けいめい]
陳 炯明(ちん けいめい)は、中華民国の政治家・軍人。広東派の指導者である。 == 人物 == 清末に広東法政学堂を卒業後、1909年に広東省諮議局議員に当選し、広東省自治に携わった。一方で同年に中国同盟会に参加したと言われ、1911年の黄花崗起義及び辛亥革命に参加した。辛亥革命後は胡漢民らと広東省統治に関わったが第二革命で袁世凱と対立したため香港に逃れた。1914年に孫文が結成した中華革命党には参加せず、黄興を支持する欧事研究会に加わっている。1917年の護法戦争の際に孫文らと共に広東に戻り、広東軍政府に参加。当時広東を支配していた広西派軍閥との角逐の末、1920年11月に広東省を掌握。孫文の広東省における勢力基盤を軍事面から援助した。 1922年6月、第二次護法戦争の際、孫文と陳炯明は意見の相違から、陳は孫文の北伐に反対し、聯省自治(zh)を主張した。さらにこの時、孫と陳の調停を懸命に図っていた鄧鏗が暗殺され、ついに両者の決裂は不可避となる。1922年6月16日、陳の部下の葉挙が出兵し総統府を攻撃、合わせて孫文の住居を砲撃したため、孫文は中山艦に乗り、広東省から離れた(六・一六事変(zh))。1923年1月、陳は、孫文と雲南派、新広西派連合を糾合した軍隊に破れ、東江に退却した。1925年国民革命軍の2度にわたる攻撃を受け、香港に逃亡し、中国致公党を結成し、総理に任命された。その後、継続して中国の統一と富強化に奔走したが、1933年香港で病没した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳炯明」の詳細全文を読む
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