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陳 発科(ちん はっか、陳 發科、1887年 - 1957年)は、中国武術である太極拳の陳家太極拳の達人。 清国河南省温県陳家溝の出身。陳氏太極拳正宗の家系に生まれ、陳長興の曾孫。陳氏太極拳十七世。 1928年に、請われて北平(北京)に出向き陳家溝の武術(陳氏太極拳の大架系統)を指導する。 楊式太極拳の小架式を伝え太極拳の世界では権威のひとりであった呉図南によると、『陳発科は、1930年代前半では「陳家溝の武術」を太極拳と呼ばず、太極拳の集まりにも参加しなかった』という。だが、この説は多くの陳家溝の長老たちの証言とは矛盾していることも忘れてはいけない。 また、陳氏太極拳が「陳式太極拳」と表記されるようになるのは、第二次世界大戦後に、中華人民共和国政府が各伝統武術の整理を行ってからのこと、と言われている。 弟子には、甥の陳照丕、子息の陳照旭、陳照奎、一族以外に潘詠周(北平での開門弟子)、王鶴林、洪均生、沈家楨、顧留馨、馮志強(関門弟子)などがいる。 == 人物・経歴 == 陳氏太極拳正宗の家に三男として生まれるも、早くに兄二人を亡くし跡継ぎの立場となる。幼い頃から病弱で、また両親が老齢の頃に出来た子供であり、更にただ一人残った跡継ぎであるため、溺愛を受け甘やかされて育った。そのため、家伝の秘技である武術もろくに訓練せず、ぶよぶよと太って遊び暮らす幼少期を送った。 しかし14歳の時、ある親族が「先祖代々、祖父も父も超一流の武術家である陳氏正宗も彼の代で終わりだな、見てみろ、あいつは遊ぶ事しか知らんではないか。」と悲しげに話しているのを見てショックを受け、その日から改心、猛烈な修行を開始した。 毎日生活の大半を練習に当てるという激しい訓練によって天性の才能が開花し、病弱だった体質はみるみる強健になり、そうなると余計に面白くなって更に練習の強度を強めていった。ついには父が伝えてた家伝の秘技全てを修め、陳家の一族から各支族に至るまで、陳氏太極拳の使い手の中で彼に及ぶ者はいなくなった。 20歳の頃には既にその雷名が各地に響いており、大軍閥である韓復榘の軍に招かれ、その徒手格闘の教官全てを倒し尊敬を受けたというエピソードが残されている。 1928年、北京(当時の呼び名は北平。当時の首都は南京)で、高名な漢方薬局である同仁堂の招きを受け、陳氏太極拳を教授していた甥の陳照丕(1891-1972)が、南京に赴くことになったため、陳氏第一の使い手であり、陳照丕の師でもあった陳発科が選ばれ、北京に向かうこととなった。 当時、各流派の達人が星のように集い、技を競い合っていた北京にあって、陳発科は「徒手では最強」とされた。 またその高潔で重厚な人柄も尊敬を集め「拳聖」の異名を以て賞賛された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳発科」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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