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陳登(ちんとう) * 中国後漢末の武将。本項で解説する。 * 中国唐末の祈祷師。李吉甫や竇群に用いられた。(竇群伝) * 中国明代、永楽期の官吏。字は思考。学識をもって知られ中書舎人に至った。(沈度伝) ---- 陳 登(ちん とう、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将、政治家。字は元龍。父は陳珪。子は陳粛。『三国志』魏志「呂布伝」とそれが引く『先賢行状』などに記述がある。 ==来歴== 誠実であり思慮深く、文学的才能にも秀でていたため、25歳で孝廉に推挙され、東陽県長となった。老人を労わり、孤児を養育するなど、民衆のためになる統治を行なった。その後、飢饉が勃発すると、陶謙に推挙されて典農校尉となり、どのような作物がその土地に育つのかよく調べ、堀を造り灌漑を整備したので、稲が豊かに実り貯えられた。 陶謙の死後は劉備に仕えた。このとき、陶謙の後継となることを躊躇する劉備に対し、積極的に徐州の主となるよう勧めたという(「先主伝」)。 後に、徐州が呂布によって奪取されると呂布に仕えた。しかし、陳登は父と同じく密かに呂布を嫌っていたという。 袁術が呂布と縁組を結ぼうと韓胤を遣わして来た時、当初は乗り気であった呂布を父が説得し、袁術と絶縁させた。また、韓胤を捕らえて曹操の下へ送り、斬らせている。陳登は呂布に曹操と結ぶよう勧めた。呂布は乗り気ではなかったが、曹操が朝廷に働きかけ呂布を左将軍に任じさせると、喜んで使者の派遣に同意した。 使者として赴いた陳登は、曹操に対し「呂布を早く滅ぼすべき」と進言した。これを聞いた曹操は陳珪父子に信頼を寄せるようになり、陳登を広陵太守に任命し、密かに徐州の安定を委ねた。呂布は、自身が徐州牧に任じられることを期待していたが、陳登だけが官職を得て戻ってきたことから不審を抱いた。しかし陳登は呂布を鷹に例えて誉めそやし、気持ちを抑えさせたという。 呂布が袁術軍の張勲率いる大軍に攻められた時は、袁術軍の内部分裂の可能性を予見し、それを父に伝えた。父はそれを受けて呂布に対し、袁術の同盟軍である楊奉・韓暹を味方に引き込む策略を提案した。呂布がこの策略を実行し、楊奉・韓暹を味方に引き込んだため、呂布軍は大勝することができた。 陳登の統治下、広陵の治安が安定したため、陳登は人々に畏怖・敬愛された。また陳矯を功曹に採り立てた(「陳矯伝」)。当時、陳登は傲慢で自惚れていると思われることが多かったようで、陳矯を許に遣わした時、都での自らの評価を観察し教えてほしいと依頼したことがあったという(「陳矯伝」)。 曹操が呂布を攻めて下邳まで進軍してきた時、陳登は曹操に帰順して呂布討伐の先駆けを務めた。呂布が籠る下邳城には陳登の弟3人がおり、呂布は彼等を人質として利用し陳登に圧力をかけた。しかし陳登は屈することなく、呂布への包囲を次第に狭めていった。まもなく城内から裏切り者が出て、陳登の弟らを連れて脱出した。呂布が滅亡すると、その功績により伏波将軍となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳登」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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