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陳興道(ちん こうどう、チャン・フン・ダオ、Trần Hưng Đạo, 1228年 - 1300年)は、大越陳朝の王族・武将。 == 概要 == 陳朝の初代皇帝・太宗の兄である陳柳の息子である。本名は陳国峻()といい、興道(興道王)は後にその功績を讃えて与えられた王族としての称号である。「兵書要略」「萬劫宗秘伝書」などの兵書の著作がある。 彼の父が朝廷の実権を握る陳守度によって失脚させられた事から、朝廷と対立していた時期もあった。1250年に興道王に封じられたが、その翌年には他の王族との婚姻が決まっていた太宗の皇女・天城長公主を力づくで奪って妻としている。だが、智勇に優れた人物であり、後には将軍として重用された。1257年、モンゴル軍が侵攻してきた時も、大越軍を率いて蒙古軍を大いに破り、逆に蒙古軍を追撃するまでの大勝を収めた。 1282年からクビライが建てた元による侵攻を受けると、陳興道は大越軍の総司令官に任じられ、巧みなゲリラ戦を繰り広げて元軍に大勝した。このとき、元の圧迫に恐れをなした仁宗が降伏しようと言い出したが、陳興道は「戦わずして降伏するくらいなら、私の首を差し出せ」と言って、これを断固として反対したという。これに勇気付けられて、仁宗は徹底抗戦の構えを固めたと言われている。1283年には国公(陳朝王族が宰相を兼ねた時に与えられる称号)・節制統領天下諸軍に任じられた。 また、二度目のモンゴルによるベトナム侵入の直前、『諭諸裨將檄文』(。一般にはとも)を書き、予譲など古の勇者の例を挙げて、モンゴルに対抗すべく軍人の士気を高めるのに尽力した。 陳朝の宮廷には陳日燏(チャン・ニャット・ズアット)など外交に長けた者がおり、また元軍が大越陳朝とチャンパ(占城国)を同時に攻撃する二正面作戦を取ったため、陳朝はチャンパ王チェー・マンと長年の遺恨を解消して共同戦線を張り、ゲリラ戦を展開した(外交戦の勝利)。1288年、大越軍と占城軍のゲリラ戦に悩まされた元軍は遂に撤退を開始した。このとき、陳興道は元軍を白藤江に追撃して、その軍勢を壊滅させている(白藤江の戦い)。その功績により、翌年には特に大王の称号(「興道大王」)を与えられた。太上皇であった陳聖宗は彼を「尚父」と呼び、陳興道が臣下に侯爵までの爵位を自由に与え、皇帝には事後報告をすれば良いという特権を与えた(『大越史記全書』興隆8年8月20日条)。 興隆8年8月20日(1300年)、死去。臨終の際、皇帝英宗がその死を惜しんで、陳興道の病床を訪れたという。チャンパ王チェー・マンは最大の盟友を失い、1306年に仁宗の娘との政略結婚をして、改善された両国関係の維持を図ったが、翌1307年にチェー・マン自身も急死し、疑心に駆られた大越・チャンパ両国は再び泥沼の抗争に突入した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳興道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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