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陳 調元(ちん ちょうげん)は中華民国の軍人・政治家。北京政府、直隷派に属し、後に国民政府(国民革命軍)に転じた。字は雪暄、雪軒。 == 事跡 == === 直隷派での活動 === 1904年(光緒30年)、北洋速成武備学堂に入学する。卒業後に武昌で陸軍第三中学堂教習に任命された。1909年(宣統元年)、保定陸軍通国速成学堂において地理教官をつとめた。 中華民国成立後の1913年(民国2年)、陳調元は馮国璋の下で軍官として任命された。後に、張宗昌を登用するよう馮に進言し、張とは無二の親友となっている。1916年(民国5年)、第74混成旅旅長に任命され、徐州に駐屯した。 1920年(民国9年)9月、直隷派の江蘇督軍李純から徐海鎮守使に任命され、安徽派の軍と戦った。翌10月に李純が自殺し、斉燮元がこれを後継する。斉と北洋武備学堂時代の同学だった陳はこれを頼り、蘇魯豫皖四省剿匪総司令に任命された。 1925年(民国14年)、奉天派に転じていた張宗昌が徐州に進軍してくると、陳調元は5月に張に降伏し、第6師師長に任命された。しかし、江蘇督軍として南下してきた奉天派の楊宇霆から冷遇されてしまう。これを怨みに思った陳は、同年9月、直隷派の孫伝芳に寝返り、奉天派の臧式毅を捕虜にしている。陳は、孫から第8軍軍長・皖軍総司令に任命され、旧安徽派の軍を吸収した。 1926年(民国15年)4月、中国国民党の北伐軍が江西省方面へ進軍してくると、孫伝芳は陳調元を第5方面軍総指揮に任命し、これを迎撃させた。しかし、孫らの軍は江西で大敗したため、陳は張宗昌を頼り安慶に駐屯した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳調元」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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