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宣帝(せんてい)は、南朝陳の第4代皇帝。姓は陳、諱は頊。 == 生涯 == 陳道談の次男として生まれた。承聖元年(552年)に叔父の陳霸先が侯景の乱を平定して京口に駐屯すると、梁の元帝が陳霸先の子弟の出仕を求めたため、陳頊は江陵に赴いて、直閤将軍・中書侍郎となった。承聖3年(554年)に江陵が西魏の侵攻により陥落すると、陳頊は関中に連行された。永定元年(557年)に陳が建国されるが、陳頊の身柄は北周に置かれたまま、陳の始興郡王に封じられた。永定3年(559年)に兄の文帝が即位すると、安成王に改封された。天嘉3年(562年)3月に北周から帰国し、侍中・中書監・中衛将軍の位を受けた。6月、使持節・都督揚南徐東揚南豫北江五州諸軍事・揚州刺史となり、驃騎将軍に進んだ。天嘉4年(563年)4月、開府儀同三司の位を受けた。天嘉6年(565年)4月には司空に上った。天康元年(566年)3月、尚書令となった。4月に文帝が崩御するにあたって、劉師知や到仲挙らとともに陳伯宗の補佐を遺命された。陳伯宗が即位すると、5月に陳頊は司徒・驃騎大将軍・録尚書・都督中外諸軍事となった。光大元年(567年)には劉師知や到仲挙らを排除して陳朝における独裁権を確立した。翌光大2年(568年)1月に太傅に進み、司徒を兼ねた。11月、沈太后の令により陳伯宗が廃位された。 太建元年(569年)1月、建康の太極前殿で皇帝位についた。太建2年(570年)4月には廃帝の臨海王陳伯宗を殺害している。 即位後は水路の整備や開墾、流民対策や租税の減免などの内政に力を注いだ。対外的には太建5年(573年)に呉明徹の北伐により北斉から淮南地方を奪取した。しかし太建9年(577年)に北周が北斉を滅ぼして華北を統一すると、その圧迫を受けるようになり、翌太建10年(578年)の呂梁の戦いの敗戦によって淮南の領土のほとんどを失った。太建12年(580年)に北周で司馬消難の乱が起こると、これを支援し、その敗北後は亡命を受け入れた。 太建14年(582年)1月、病のために宣福殿で崩御した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宣帝 (陳)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Emperor Xuan of Chen 」があります。 スポンサード リンク
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