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陶侃(とうかん、259年 - 334年)は、中国の西晋、東晋の武将。字は士行。鄱陽の人。父は呉の揚武将軍陶丹。母は湛氏。子は16人いたとされるが、記録に残っているのは陶洪、陶瞻、陶夏、陶琦、陶旗、陶斌、陶称、陶範、陶岱の9人だけである。甥に陶臻、陶輿。詩人の陶淵明は曾孫とされるが、陶淵明の祖父とされる陶茂は晋書の陶侃伝には記録されていない。 ==生涯== 呉が西晋に降伏した後、廬江の尋陽に移り住んだ。若くして父が死去、家が貧しかったが、母・湛氏は髪を売り酒肴に変えて陶侃の交際費用にあてた。范逵の推挙により廬江太守の張夔に仕え、そこで名を上げ孝廉に推挙された。孝廉に推挙された陶侃は洛陽に行き同じ江南出身の孫秀の舎人となる。また洛陽では張華、楊晫、顧栄らにその才を賞賛された。その後荊州刺史の劉弘の配下となり丘沈・張昌の乱、陳敏の乱の平定に活躍した。その後母が死に喪に服す。 喪が明けると東海王司馬越に仕え、江州刺史華軼の下で揚武将軍になり夏口を守った。また甥の陶臻も参軍として華軼に仕えたが、華軼が瑯邪王司馬睿(後の東晋の元帝)が不仲であることに気づき、難を避けるため病気と偽り職を辞して帰った。それを知った陶侃は激怒するも結局陶臻は司馬睿の下に行き参軍になり、陶侃も奮威将軍に任命される。このことによって陶侃と華軼は不仲になった。 永嘉の乱が起こり天下が大いに乱れ、賊が荊州で暴れ始めるとその平定に尽力し、その活躍が王敦の目に留まり推挙され313年に荊州刺史となり、杜弢らの荊州での叛乱を苦難の末平定した。功を上げた陶侃は王敦に妬まれ315年に広州刺史に左遷されるも、陶侃は慕われていたので荊州の将士達は反発し後任の王廣(王敦の従弟)の荊州入りを拒絶した。王敦は激怒し陶侃を殺そうとしたが梅陶、陳頒らの擁護によって王敦の怒りは収まり無事任地に行くことが出来た。広州に行くと王機らの叛乱を平定した。王敦が叛乱を起こすと江州刺史や湘州刺史を勤め、交州の賊を平定し功績を挙げた。王敦の叛乱後は荊州刺史に復帰、荊州の人達に喜ばれたという。 蘇峻が叛乱を起こすと、子の陶瞻は賊に殺されるも、盟主に推薦されると郗鑒、温嶠、庾亮らと蘇峻を破り叛乱を平定し、その後も郭黙の叛乱や後趙の石勒の将軍郭敬を討ち、大将軍に任命され剣履上殿、入朝不趨、賛拝不名の特権を与えられるもこれを固辞した。太尉に昇進して郗鑒、王導と共に幼少の成帝を支えた。 334年、荊州にて76歳で死去。陶侃の軍団は荊州を拠点とした長江中流域に駐屯、西府軍団として長江下流域に陣取る郗鑒の北府軍団と並び東晋の重要な軍事組織となった。西府軍団は陶侃の死後庾亮が継承、死後は弟の庾翼に受け継がれたが、345年に庾翼が亡くなると桓温が後任となり、やがて北府軍団も手中に収めて東晋からの禅譲を狙うようになっていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陶侃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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