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陶武護 : ウィキペディア日本語版
陶武護[すえ たけもり]

陶 武護(すえ たけもり、生年未詳 - 明応4年(1495年))は、室町時代後期の武将大内氏の家臣。別名は宗景。陶弘護の嫡男。弟に興明(おきあき)、興房。子に陶興明(おきあき、子に陶房賢(ふさかた))、陶隆胤(たかたね)、陶晴之(はるゆき)がいる。
== 生涯 ==
父が文明14年(1482年)5月27日に吉見信頼に殺害されたため(大内山口事件)、家督を継いだが、幼年のために叔父の陶弘詮(右田弘詮)の後見を受けた。その後、六角征伐に従軍する大内義興に従軍して京都に駐屯していた延徳4年(1492年)に突如、出奔して摂津国の天王寺にて出家してしまった〔『蔭涼軒日録』延徳4年7月2日条〕〔藤井崇 著『中世武士選書‐大内義興』戎光祥出版、2014年、p.44〕。
そのため、陶氏の家督は弟の興明が継承したが、明応4年(1495年)になって宗景(そうけい)と号していた武護が突然帰国して、2月13日に興明を討ち取って家督を奪ってしまった〔藤井崇 著『中世武士選書‐大内義興』戎光祥出版、2014年、p.44〕。
大内山口事件以来、大内家では信頼を成敗した内藤弘矩が権勢を誇っていたが、大内譜代の家臣である武護はこれを苦々しく思っていた。そのため、武護は家督を継いだばかりの義興に対して「内藤弘矩が大内隆弘(義興の弟)を当主に擁立しようと画策している」という讒言を行なった。まだ19歳と若かった義興は、これを信じて明応4年2月28日に弘矩とその子内藤弘和を誅殺した。しかしその直後に弘矩の冤罪がわかって後悔した義興は、内藤家の再興や弘矩の娘を自らの正室にするなどして名誉を回復する一方で、武護には死を命じた。
ところが、内藤弘矩父子の死について、弘矩を讒言したとされる陶武護に与同を企てたため、先代当主の大内政弘によって殺害されたとする逆の説〔『晴興宿禰記』明応4年3月21日条〕も伝えられている〔藤井崇 著『中世武士選書‐大内義興』戎光祥出版、2014年、p.45-47〕。また、武護による陶氏当主・興明殺害自体が大内氏に対する反逆とも解され、その直後(15日後)に内藤弘矩が殺害されるなど、時系列的に不可解な点が見受けられる。実際に大内義興は明応4年6月19日付で東福寺に充てた書状にて「陶中務入道宗景(武護)不儀を企て候の間、成敗を加え候につき、尊書拝見つかまつる」と記しており、この時までに義興によって武護が討たれていた可能性が高い〔藤井崇 著『中世武士選書‐大内義興』戎光祥出版、2014年、p.45〕。
陶氏の家督は弟の陶興房が継いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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