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陶潜 ( リダイレクト:陶淵明 ) : ウィキペディア日本語版 | 陶淵明[とう えんめい]
陶 淵明(とう えんめい、365年(興寧3年)〔沈約『宋書』隠逸伝の記述より。ただし生年および死亡時の年齢については多くの異説がある。〕 - 427年(元嘉3年)11月)は、中国の魏晋南北朝時代(六朝期)、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字が淵明〔梁の昭明太子蕭統の 「陶淵明伝」および『宋書』隠逸伝より。名前と字については諸説があり、『晋書』隠逸伝では「陶潜、字元亮」、『南史』隠逸伝では「陶潜、字淵明。或云、字淵明、名元亮」とする。〕。死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。潯陽柴桑(現江西省九江市)の人。郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。 == 生涯 == 陶淵明の四言詩「子に命(なづ)く」によると、その祖は神話の皇帝、帝堯(陶唐氏)に遡るという。祖先は、三国呉の揚武将軍・陶丹であり、陶丹の子で東晋の大司馬・長沙公の陶侃は曾祖父にあたり、祖父の陶茂は武昌太守となったというが、詳しい事は不明である〔『晋書』陶侃伝には、陶侃の子孫の幾人かが記録されているが、そこには陶茂の名前はない。〕。母方の祖父には孟嘉がいる。いずれも門閥が重視された魏晋南北朝時代においては、「寒門(単家)」と呼ばれる下級士族の出身であった。 陶淵明は393年、江州祭酒として出仕するも短期間で辞め、直後に主簿(記録官)として招かれたが就任を辞退する。399年、江州刺史・桓玄に仕えるも、401年には母の孟氏の喪に服すため辞任。404年、鎮軍将軍・劉裕に参軍(幕僚)として仕える〔『文選』李善注より。鎮軍将軍を劉牢之とし、399年のこととする異説もある(清の陶澍など)〕。これらの出仕は主に経済的な理由によるものであったが、いずれも下級役人としての職務に耐えられず、短期間で辞任している。405年秋8月、彭沢県(九江市の約90km東)の県令となるが、80数日後の11月には辞任して帰郷した〔「帰去来の辞」序によると、程氏に嫁いでいた妹の死が理由とある。「陶淵明伝」や『宋書』『南史』本伝によると、郡の督郵が巡察に来るので衣冠束帯して待つよう下吏に言われたのに対し、「我 五斗米の為に腰を折りて郷里の小人に向かう能わず(僅かな俸給のために、田舎の若造に腰を折るのは真っ平だ)」と憤慨し、即日辞職・帰郷したという。〕。 以後、陶淵明は隠遁の生活を続け二度と出仕せず、廬山の慧遠に師事した周続之、匡山に隠棲した劉遺民と「潯陽の三隠」と称された。隠棲後の出来事としては、408年、火事にあって屋敷を失い、しばらくは門前に舫う船に寝泊りする〔「戊申歳六月中 火に遇う」〕、411年、住まいを南村に移すも〔「居を移す」〕、同年、隠遁生活の同士であった従弟の陶敬遠を喪う〔「従弟敬遠を祭る文」〕、という事があった。この間も東晋および劉裕が建国した宋の朝廷から招かれたがいずれも応じなかった。427年、死去。享年63〔沈約『宋書』隠逸伝の記述より。ただし生年および死亡時の年齢については多くの異説がある。〕。その誄(追悼文)は、友人で当時を代表する文人の顔延之によるものであった。
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